#伝記、自伝

この世に未練を持つ故人はこの世をさ迷う

私の履歴書・402 前回の記事では、駿河大納言忠長の自刃の場面が現われましたね。 以下、その後日談です。 注)前回No.401の記事 http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60866042.html その朝、支店長の松山君(仮称)がホテルまで迎えに来ました。 私は…

財界人が行列していた湯島の芸者

私の履歴書・399 1992年3月11日(水)~13日(金)大阪市中央区のホテルでのニ泊三日の合宿の初日に講義されましたのが ㈱大阪銀行代表取締役会長 石原保氏。 演題は「経営の基本」 . . 翌12日はケーススタディとして二人の社長が登場しまし…

逆境があったからこそ

私の履歴書・398 前回に引き続き、1993年、セーレン㈱川田達男社長との懇談会の話しです。 ★ 繊維業界の全盛時代、彼は明治大学経営学部卒業後、倍率150の名門・福井精練加工㈱に入社。 . . その新卒研修期間、この企業は単なる下請企業に過ぎな…

セーレン㈱川田達男社長(1993年当時53歳)との懇談会

私の履歴書・397 1993年、この後継者育成セミナーでは、ホテルでの缶詰の他に、企業訪問や工場見学、並びに訪問先企業の社長との懇談会がありました。 その中で印象深かったものを幾つか。 ★ 11月13日(金)、福井のセーレン㈱(東証3569)…

過酷だった十三(じゅうそう)での研修

私の履歴書・396 1992年の秋 吉田本部長に茶封筒を渡されました。 「このセミナーに参加するように」と言いながら。 その案内書には「後継者育成塾」と書かれています。 略称「NF(ニューフロンテア)塾」 主催は、関西のある財団法人。 研修期間 一…

横山「三国志」・ちば「プレイボール」の画像で士気高揚!

私の履歴書・394 今回は、本社着任の1991年のことで、追加の記事を三つ書きます。 亜子の札幌での結婚式のことは、この次の回です。 【一つ目】 私の仕事には、マスコミ対応と新商品開発も含んでいましたから、新商品発表では、本社に各新聞記者を招…

社長の陰の一面を知る

私の履歴書・393 今回は、私を陰ながら支えてくれた二人の取締役の話しです。 1991年春、札幌から本社着任早々、菅野(仮称)取締役工場長兼㈱関西メンテナンスウズマサ代表取締役)に呼ばれました。 . . 彼は威厳があり、然も、睨まれたら身動き出来な…

部下の成長は、上司次第ですね

私の履歴書・392 今回は、私の社内講演の話しです。 毎月全国九ヶ所で開催されるエリア会議の中で、月に二ヶ所ずつのエリア会議に出席し、各支所長や営業課長の報告を聴聞し、各地の現状を把握しました。 . . それらのエリア会議で私は論評やコメントの…

将来、企業の破綻を招く縁故人事

私の履歴書・391 今回の話しは、吉田本部長が自分の義弟を縁故採用した結果の一つのことです。 私が札幌営業所所長から本社営業本部企画課長として転勤してからも毎月の支店長会議に出席しました。私の後任の福知札幌営業所長も出席です。 私が札幌を去…

当時23歳の女子事務員の勝負手

私の履歴書・390 今回は、若き女性の目的を果たそうとする執念の話しです。 . . 私が本社着任の翌年・1992年5月、新卒が配属されました。 私の部署には、四大卒の男子二名と短大卒女子一名の三名が配属となり、計六名となりました。 歓迎会の飲み会は同…

私の脳の中のメモリチップ

私の履歴書・389 毎年三月に開催される全国の支所代表者やグループ会社代表者、主要取引先役員や銀行株主が一同に会する全グループ大会を数日後に控えた或る日のこと、会長が亡くなられました。 . . 対外的には菩提寺の大講堂での葬儀で、社内的には会社…

祇園花見小路での失敗談

私の履歴書・388 祇園花見小路での失敗談 - 膀胱のピンチ ついでに失敗談を続けます。 話は一年後の1992年に飛びます。 同じ二月の事でした。 . 旭川営業所の斎木君から連絡が来ました。旭川三六街のお得意さんのTさん(商店)のお嬢さんが京都外国…

戒めの七針

私の履歴書・387 同じく本社着任した1991年2月下旬のこと。 早速洗礼を受けました。 吉田本部長に芥川女史(当時50歳)、そして私の部下の原事務員(入社2年目京女卒25歳)との四人で居酒屋に行った後、祇園に行く事になりました。 参考)芥川…

京都先斗町での別れの演出

私の履歴書・386 1991年2月6日、千歳空港を飛び立ち伊丹空港へ。 午後6時半、本社着任挨拶。 その夜は吉田本部長と祇園で先ず一杯。 翌日から会議の連続。 毎月出席する会議は、本社で10箇所。エリア会議(支店)では2箇所でした。 ①支店長会…

舞妓・芸子うちわの思い出

私の履歴書・404 舞妓・芸妓うちわの思い出 さてさて、今日は7月11日ですから、京都の四条烏丸界隈では、鉾立てが始まり、祇園ばやしのコンチキチンが響き渡っているでしょうね。2011.07.11執筆 曇天にも映える、鮮やか山鉾 京都・祇園祭 1991年…

放射線被害は個々裁判で争うしかないとの報道

今朝のNHK「あさイチ」で、重大な発言をさりげなく報道していましたね。 これまで政府はいかにも放射能汚染された国民の健康について、国が何十年も責任を持つかのように言ってきましたね。 処が 今日の話では「最後は司法の場での話になる可能性がある」と…

北海道編 画像提供の御礼

(藻岩山からの見渡した札幌市街地夜景パノラマ←ここをクリックしましたらパノラマが展開します ) 画像提供のお礼 私のブログ記事「曾孫に贈る私の履歴書40歳代・北海道編」の記事中の画像の多くは、皆様の温情により掲載出来たものです。 皆様のお蔭で、…

中高年男子の脳回路

私の履歴書・384 今回は、実につまらない話し。 札幌時代のダイアリーの中で、最後の年の1990年版のダイアリーの余白に書き込まれたメモ数が一番多かったですね。 仙台の松島課長が札幌に来る都度、感嘆した言葉。 「札幌にはいい社員がいるなあ~」…

もう1年札幌に勤務していたら?

私の履歴書・383 世子と函館へ行ったことや賃貸マンションのことなど、ブログ友の皆さんにご指摘を受けるまで分かりませんでした。単に不可思議な出来事だったという思いだけでしたね。 . . 1988年春、世子が入社後から事務所で私と度々目が合うと世…

分からなかった会社を辞めたい理由

私の履歴書・382 (世子とのドライブ ③/③) 1990年8月、函館から帰ってきた翌週にも世子から再度同行を依頼されました。 私の空いていた日は8月24日。 . . その日、世子の車の助手席に乗って夕張と岩見沢に行きました。 そもそもこのエリアは関根社…

気分は恋人同士の函館の夜

私の履歴書・381 (世子とのドライブ ②/③) 目的地の函館健康センター励明薬湯に着き、先ずは全景をパチリ。 「所長、お風呂に入っていきますか?」 「堪忍してちょうだい。清田(札幌市)の励明薬湯が出来たとき入浴してエライ目にあっているから」 注…

クマザサの中の女性用トイレ

私の履歴書・380 (世子とのドライブ ①/③) ダイアリーの中に、色々とメモしていました。 その中から、直ぐに思い出せたことから。 1990年8月10日(金曜日)のこと。 世子が話しかけて来ました。 「所長、お盆はどうされますか?」 「そうだね、私は平常…

肉食のリスク

私の履歴書 番外編 肉食のリスク 今年平成23年4月27日焼き肉チェーン「焼肉酒家(さかや)えびす」の集団食中毒事件が発覚。 死者4名、今尚重症入院患者18名。 これで思い出した事がありました。 私の入社以前の昭和40年代後半、山村課長、平井主任…

トルコ石で始まりトルコ石で終った札幌勤務

私の履歴書・378 1991年2月6日、転勤移動の日。 札幌営業所に出社しない予定でしたが通常通り出社し朝礼に参加。 見送りは断りました。 近くのリムジンバス乗り場(R36号線月寒)に車で送ってもらい、そこから乗車。 千歳空港から伊丹行772便に搭乗。 …

北海道最後の日の温泉入浴

私の履歴書・377 1991年1月初めに転勤を言い渡されてから単独で道内を駆け巡り、更に21日以降、後任の福地君と共に駆け巡った全道転勤挨拶の旅。 1月末、福知君は一旦千葉に帰りました。 千葉営業所での引き継ぎに関して、新たな問題が発覚したようでし…

心温まる別海・中標津・標津のご婦人たち

私の履歴書・376 1987年1月から1991年1月までの四年間、何度道東を釧路や北見の社員の車やレンタカーで走り回ったことか。 でも、エゾシカに出会ったのはたった一度だけ。 それも遠方から。 参考)ゆうこさんのエゾシカのブログ記事 ←ここをクリック 当時…

歩いて渡らなかった釧路・幣舞橋(ぬさまいはし)

私の履歴書・375 歩いて渡らなかった釧路・幣舞橋(ぬさまいはし) 帯広駅近くでレンタカーを借り、後任の福知君を乗せて帯広商業組合事務所へ。 そしてその二階に開設したばかりの我社出張所へ。 . . そもそも、私の着任時、この帯広エリアは函館エリアと…

怒り狂った彼の妻が包丁を投げる

私の履歴書・374 怒り狂った彼の妻が包丁を投げる 私の後任者・千葉営業所福知所長に引継ぎの日時を問う電話をすれども、音沙汰無し。 先ずは着任前に一度札幌に来て住居を確定するものだが、どうやら千葉営業所の引継ぎでもめているらしい。 参考1)私の…

公然の秘密の闇金作り

私の履歴書・373 北海道は、私が1987年に赴任するまで子会社が管轄していましたね。 その子会社時代、山川・坂上両氏によって闇金作りが行われ、それを定期的に菅野取締役(工場長)が回収。太秦社長に上納されていたのです。 注)上納していた全国の子会社…

当時は遠すぎた襟裳岬

私の履歴書・372 神戸部長は、私を陥(おとしい)れたい充分な理由が二つありました。 そのうちの一つ目。 私が着任時の彼の年齢は63歳。 札幌を離れる時が67歳。 . 職制上では「参事」で私の部下。 但し呼称は人生経験を尊重して「部長」。 彼は、札幌営業…