当時は遠すぎた襟裳岬
私の履歴書・372
神戸部長は、私を陥(おとしい)れたい充分な理由が二つありました。
そのうちの一つ目。
私が着任時の彼の年齢は63歳。
札幌を離れる時が67歳。
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職制上では「参事」で私の部下。
但し呼称は人生経験を尊重して「部長」。
彼は、札幌営業所所属であると同時に、本社ロゴ機販売促進部所属。
毎月一度、本社にてロゴ機販売促進部の会議に出席。
彼の業績評価は、ロゴ機を道内で何台受注したかである。
だから、何処のエリア(地域)で受注しようがお構いなし。
彼にとって他社に市場の一部でも明け渡すなどとはとんでもない話。
と言っても、私の函館戦争での戦略『函館エリア撤退』には従った。
尚、当時、具体的戦略について彼には一切説明していない。
戦略内容が漏れたら、失敗するからである。
問題は、日高支庁エリア(地域)。
このエリアからの撤退論を打ち出すも、彼は心情的には従えない事情があった。
ここの面積は和歌山県や福岡県に匹敵する広大なエリア。
このエリアでは、1987年着任当時、総人口は僅か8万人台。牛馬の数の方が遙かに多い。
市場規模は、通常では年間数台。
最大で年間20台。
更に、この地形が問題。
和歌山県の先端・潮岬(串本)に行く昔の国道42号線と似ている。
苫小牧からは狭い片側一車線で、追い越し禁止の国道が延々と続く。
当時、浦河と言うと、札幌市内から夏季で片道5時間。
冬道だと7時間。往復しただけで14時間。
つまり札幌から夏季で片道7時間。
冬季では雪は積もらず、チラチラ程度のこの地域。
処が、往復で20時間を覚悟しなきゃならない。
走る車は全てスパイクタイヤ。(当時)
これが、アスファルトを削ると言うよりも掘る。
だから雪のわだちではない。
アスファルトのわだちだが半端じゃない。
わだちの深さは20cm以上。
普通乗用車がこのわだちにはまったら、車の腹を打つ。
ここに雪がさらりと降って凍結したら命がけ。
わだちにはまって脱出しようとすると、車はあらぬ方向に飛ぶ。
衝突事故多発で、国道ストップは毎度のことでしたね。
つまり、このエリアに社員を行かせた場合、終日その往復でお仕舞。
冬季の場合は、二日間、その社員が消えたのも同じ。
更に、事故にからんでいないか帰社するまでは安心できない。
実は、彼がこの日高支庁管内にこだわっていた理由とは、
彼はLL社の最後の勤務地がここ浦河営業所所長でしたから。
然も、その在職中、ライバルのブラウン社を商店に斡旋してきたのですから。
その負い目があるからこそ、このエリアで我社の機器の販売に努力する。
彼の本社ロゴ機販売促進部の会議では、間接的に私の批判を展開しましたね。
「私の努力で、観光地の襟裳岬に納入出来ました」と鼻高々。
そこはライバル各社も尻込みし、誰も手を挙げない場所。
納品するのに二名は必要。
当時、月間経費から割り出すと、一日一人当たり経費が6万円。
それが翌日に休みを与えなければならない。
つまり、一台の納品で、二名×二日間で延人員4名の24万円のコスト。
交代したら、改めて機器説明をしなければならない。
これだけで一人の社員が更に二日間の計12万円のコストの計36万円。
機器故障との通報で駆けつけると更に12万円。コンセントが外れただけなのに。
彼とそのエリア担当の魚住君を叱りました。
彼は20歳若い私に叱られたのですから、心中、穏やかではないですね。
気持ちは分かります。
叱って諭したのはこの一度だけではありませんから。
これが、一つ目の理由。
注)今は、苫小牧まで高速。更にバイパスが出来て、札幌から夏季は4時間で襟裳岬に行けるようです。(235km)
冬季は分かりません。
参考)襟裳岬ライブカメラ
注)襟裳岬の日の出