分からなかった会社を辞めたい理由

 
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    私の履歴書・382
  (世子とのドライブ /
 
1990年8月、函館から帰ってきた翌週にも世子から再度同行を依頼されました。
 
私の空いていた日は8月24日。
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その日、世子の車の助手席に乗って夕張と岩見沢に行きました。
そもそもこのエリアは関根社員の担当ですから一種の越境ですね。
 
訪問先は二軒だけですから、午前中に済ませてしまいました。
この時ですね。山手に赤いラブホの見える田んぼの中のイタリアンレストランに入ったのは。
 
注)当時、このラブホとレストランは道央自動車道から東の山手に見えましたが、今、検索してみても見当たりません。それもそうですね。もう20年以上経っていますから。
 
その翌朝、メンテナンス部署の野川君に言われましたね。
「所長と世子さんは、昨日、変な所を走っていたでしょう」って。
 
この時のことは、以前に記事で書いていますね。
参照)私の履歴書323 顧客との更なる接点を深めるために
 
1990年のダイアリーを開いてみて、この時の詳細を改めて思い出しました。
 
イタリアンレストランでの食後のコーヒーの時に、世子はおもむろに口を開きました。
「所長に相談したいことがあります」
やはりそうか、何か重たいものが彼女の心に潜むのは感じていました。
 
「所長、私、会社を辞めたい」
 
暫らく間を置いてから続けてポツリと言いました。
「辞めることは、彼氏や家族全員に報告し了解を得ています」
 
返答の仕様がなかったですね。
そこまで進んでいるなら、9日前、函館に私を連れて行ったのは何の為だろう?
 
函館での私の振る舞いに何か問題があったのだろうか。
それとも、函館から帰ってきてからの数日間、どんな事が起きたのだろう。
 
色々な想いが試行錯誤しました。
 
 
世子と彼氏が上手くいっていないのは、世子から度々聞かされていました。
それもそうですね。
 
世子の平日での帰宅は午前様が多い。土曜日曜は会議や一泊研修が度々。
「仕事のことで頭が一杯。彼氏のこと等考える余裕はないわ」とも言っていましたね。
 
彼氏から度々会社を辞めるように懇願されていました。
この彼氏との問題が原因なのか?
 
私の履歴書330彼女の成長へのプロセス
 
あるいは、
 
当時、二十歳台前半の5~6人いた女性社員達は、夕方になると喧騒たるもの。
それに、彼女等の顕著なる特徴は嫌な人の言うことは聞かない。
言われてもあからさまに「フン!」。女性が数人集まったら強いものですね。
 
嫌な人とは、設計担当の岡部課長(当時46歳)と総務の森口係長(当時39歳)。
彼女等に嫌われている故かこの二人は私に何度か陳情しにきました。
 
「やれ休みがどうのこうのとあんな我がまゝで五月蝿いオンナ供は、全部首にしてしまったらどうですか?」
 
私は苦笑するだけ。
 
「女性達は君達より余程値打ちがある」とは直接この二人には言いませんでしたが、「君達の会社に対しての貢献度と彼女達の貢献度を数字で比較してみたらどう?」とは言いましたね。
 
世子は彼等の言った「オンナ供は全部首」という言葉を気にしていたのかな?
 
 
それとも、この年の春、新卒で営業員として雇用した女子短大卒の麗子(仮称)が、この8月初めに辞表を出してきたから、それが原因かも。
 
世子に部下として、新卒の指導育成を委ねました。
将来、世子が独立して社員を雇用する立場になった場合の一種の試技として。
 
他方、世子は軽快で然も爽快さが彼女の魅力。
新卒の麗子に、この姿を見習って欲しいと思いましたね。
 
世子に言わせれば、麗子はまだまだ顧客の前で腰が引けているとか。
世子がここを指導しようとしたが、麗子にとっては辛かったのかもしれない。
 
このことに責任を感じたからかな?
それにしても、家族の了解をとったと言う意味が分からない。
 
お互いの目と目を見つめあいながら、暫しの時が流れました。
突然辞めたいと言われてみると、何が原因なのか分からないものですね。
それから世子との出会いから今日までの色々な事が思い出されましたね。
 
私 「君の人生は君のものだからね。君の人生目標達成の為にこの会社が障害になっているかどうかだね。多くの収入を得たいのだったら、何れにしても、宮仕えする限りにおいては、そんなに期待する程の収入は望めないね」
 
世子が何かをするためにお金を貯めていたことは知っていました。
それは世子らしいことでした。
 
暫し間を置いて、
「今、何等かのチャンスが到来しているなら迷わずそれを選択すべきだろう。もしも、そうではなかったら、そのチャンスが来るまでこの会社に勤務していたらどうかね」
 
お互い、無言が続きました。
そのままでどのくらいの時間が経過したのでしょうか。
世子が落ち着いた声で言いました。
 
「もう一度、考えてみますわ」
「そうしてくれたまえ」
 
その日以降、世子にこの件について一度も問いませんでした。
 
10日後の9月初め、世子が 「所長、宝くじを一緒に買いましょう」 というので、世子が30枚、私が60枚買いましたね。
 
これは世子の「会社を辞めないよ!」というシグナルでした。
尚、抽選日は9月21日。結果はお互いかすりもせず。
 
以後、世子の助手席には毎月二回から四回乗りました。
札幌市内東部と苫小牧方面ですね。
 
10月18日(水)夜、事務所で世子と二人きりになったとき、報告がありました。
菊水で新築の2DKマンションを自分一人で借りることにしたと言います。
それまで世子は、自宅から通勤していたのでした。
 
「彼氏と一緒に住むのか?」と問うも「一緒に住むかどうかは分からない」とのこと。
以後、これに関しても何も問わず。
 
 
12月24日(日)に賃貸マンションから荷物を引き揚げたという報告がありました。
それにしても何の為に賃貸マンションを借りたのか、理由が分からなかったですね。
 
巷の噂では、彼氏と別れたとのことですが、賃貸に入る前に別れたのか、それともその後に別れたのかは不明ですし、敢えて問いもしませんでした。
 
 
年が明けての1月早々、私に転勤命令が来ました。
バタバタとした転勤引継ぎでの一ヶ月間でした。
 
この月、世子とは四日間一緒に顧客への転勤挨拶訪問をしましたね。
そして2月6日、千歳空港から伊丹空港へ。夕刻、本社着任。
 
以後、全国の女性パート営業員(主に主婦 40名前後)は私の担当で、年に三度本社に召集し会議を開催。夜は毎回彼女等を引き連れて、先斗町祇園を梯子酒。
 
世子や亜子は正社員でしたから私の管轄外。
でも、秋に北海道の指導で北海道エリア会議に出席しましたが、彼女等にあの目からのキラキラとした生気はもう無くなっていましたね。
 
尚、世子は私が北海道を去った一年半後に会社を辞めました。
同じ年、亜子達も会社を辞め、札幌でのうら若き女性営業員は皆無となりました。
 
 
                   「世子とのドライブ」の項はこれでおしまい