社長の陰の一面を知る

 
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      私の履歴書・393
 
今回は、私を陰ながら支えてくれた二人の取締役の話しです。
 
1991年春、札幌から本社着任早々、菅野(仮称)取締役工場長兼㈱関西メンテナンスウズマサ代表取締役)に呼ばれました。
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彼は威厳があり、然も、睨まれたら身動き出来ないほどの眼光の持ち主でした。
 
私が中国メンテナンスの常務時代、全国メンテナンス会社役員会議で彼も関西メンテナンスの社長として出席していましたから、顔はよく知っていました。
以後、札幌時代、出張で来られました時も挨拶をした程度です。
 
その菅野取締役が私を呼びつけるとは何事だろうと思いました。
 
彼は創価学会の幹部で、その昔、労働組合が結成されストライキの事態になった時、彼はストライキの首謀者を除き、工場の大半の工員を説得し、創価学会に入信させ、ストライキを中止させましたから、ひょっとして私に入信を要請するのかもしれない。その時はどう対応しようか、などと思いながら廊下を歩いていきました。
 
ところが、
 
彼は、茶封筒に入った戸籍謄本を取り出し、私の前に広げたのです。
それは、太秦社長のものでした。
 
そして彼は私に太秦社長の家族関係の説明をするのです。
何で私に? 
 
最初の一通の戸籍謄本の子の欄には、長男と長女が記載されたものでした。

これを私が見てどうなるのかチンプンカンプンでした。
注) 但し、その戸籍の中の身分事項欄にもう一人の男の子の名前を見たかどうかは記憶に無い。
 
もう一通の戸籍謄本は、太秦社長の二号伊予さんとその男の子(非嫡出子 庶子)のものでした。
 
「今度、伊予さんの子は太秦社長の戸籍に入るからね」 と言いながら、その辺の事情や経過を話しました。私に何の関係があるのか益々不思議でした。
 
一ヶ月後、再度彼に呼ばれました。
彼は入籍を完了した戸籍を広げました。
 
「これで奥さんの子が長男で、伊予さんの子が次男だ」
この男の子二人は、同じ年ですが、本妻(故人)の子の方が何ヶ月か先に生まれていました。この時の二人は、中学生か高校生だったと思います。
 
然し、依然とこのことを私に知らせる意味が分からなかったのです。
無論、今でも。
                  ★
 
次は、話しは変わって同じ1991年の初夏のこと
 
本社内にT銀行からこられた丹治取締役(仮称)が主宰する囲碁クラブがあり、そのメンバーの大半は、役員と退陣した元役員の方々でした。
 
私はそのクラブに入会していないのですが、丹治取締役から「五月の連休後の日曜日に囲碁大会を開催するので是非参加するように」との要請がありました。
 
その当日、高槻の自宅に迎えに来た丹治取締役の車で会場に行きました。そこは、太秦社長の三号さんの自宅二階の十畳間二部屋でした。
 
入室して驚いたのは、社長と三号さんの他に四号さんもいました。
三号さんも四号さんも囲碁の段持ちとのことで二度びっくり。
注)尚、当時、社長には五号さんまでいました。
 
尚、社長の生誕地で若い頃両親と住んでいた地は京都祇園祭での山鉾界隈と隣接した町内ですから、複数以上のおめかけさん持ちは当然といえば当然でした。
 
集まった人数は、15~6名だったと思います。私は段を持っていないので、丹治取締役が初段格として扱ってくれました。
 
対戦形式は、トーナメント戦。皆さん、関西棋院の三段以上で、社長は六段の免状を持っています。
 
さて対戦。
私は初段格ですから、何子かの石を置いて打ちました。
 
本格的に打つのは七年ぶりですので錆びた脳回路では疲れること。頭は汗だらけ。一局打つ都度、目はしょぼくれていきました。
 
でも、何故か私は勝ち進み、優勝し、優勝賞品として食器乾燥機を貰いました。歴戦全て、五目以内勝ちでした。
 
幸運にも、社長・三号さん・四号さんは私と対戦することなく、途中で敗退しました。困りますからね。この三人のお方と対戦したら負けるべきかどうかで迷いますから。
 
そして二年目の翌年五月連休後の最初の日曜日の10日、再度声がかかりました。同じく丹治取締役の車で、場所も同じく三号さんの自宅の二階の和室。
 
私のこの時は、二段格として打ちました。
拙い事に二戦目で社長と対戦。四子局でした。
 
左上隅から戦闘が始まり、社長の大石は中央に逃げられると思ったようでした。だが、数十手先で、この大石を仕留める手があったのです。
 
悩みましたね。この手を打つと恐らく社長は挽回不能で社長の負け。この手を打たないと、私も相当無理をして打っていますから恐らく私の負け。
 
「打つ」「打たない」と頭の中では二つの言葉が行き交う。
暫し後、「エィ」とばかりに打ち、社長の大石は頓死。
 
その後、準決勝で負けましたが、私と同年代の三号さん四号さんの二人と対局しなかったことはラッキーでした。
 
この二度目の囲碁大会が5月10日。
札幌時代の部下・亜子の結婚式は、一ヵ月後の6月14日(日曜日)。
 
この亜子の結婚式に私が出席することで、この囲碁大会の週から社長とひと悶着があったのです。