部下の成長は、上司次第ですね

 
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    私の履歴書・392    
 
今回は、私の社内講演の話しです。
 
毎月全国九ヶ所で開催されるエリア会議の中で、月に二ヶ所ずつのエリア会議に出席し、各支所長や営業課長の報告を聴聞し、各地の現状を把握しました。
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それらのエリア会議で私は論評やコメントの他に、私の講演を約1時間しました。
当初の講演では、私が札幌営業所で実践した「確率論」でした。
 
一言で云えば、「営業員の目標達成する行動量の指針」でしょうか。
 
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私の履歴書332 データに基づく確率論
 
例えば、ある営業員の六ヶ月間平均月間行動結果
新規営業訪問件数(a)  100件
見込み客獲得数(b)      20件
受注数(c)              5台
の場合、
  新規訪問による受注確率(p) =c÷a(×100%)=5÷100(×100%)=5%
  新規訪問による見込み客獲得率(q)=b÷a(×100%)=20÷100(×100%)=20%
見込み客に対しての受注確率(r)= c÷b(×100%)=5÷20(×100%)=25%
 
この三つの数字、「p. q. r」→「5(%)、20(%)、25(%)」が彼の持つ確率=実力となる。
 
拠って、彼が受注目標(c)を倍の10台にしようと思うならば、
方法1) (a)を倍の200件にする
方法2) 訪問技術を向上させ(a)は従来と同じ100件でも(b)を倍の40件にする
方法3) 受注技術を向上させ(b)は従来と同じ20件でも(c)を倍の10台にする
 
拠って、彼の当面の行動は、スキル(技術)面(p)(q)(r)は直ぐにアップしないから、新規営業訪問件数(a)を倍の200件にし、他方スキルアップの訓練をすることとなる。
 
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この確率論は複雑そうですが、家計に置き換えたら簡単に理解出来ます。
 
「毎月の手取り額が30万円で、毎月の赤字が5万円の場合、収入を5万円増やす為にパート時間を増やすか、それとも知恵を出して5万円分の経費を減らしたらいい」
「食糧費の一部を減らすには、スーパーに買い物に行く回数を半分にしたらいい」
 
この確率論は、あくまでも行動の目安を求める為に具体的に数値化したものです。
自分の数値と優秀な営業員との数値の比較により、自分に何が欠けているのかが明白になりますし、彼の上司にとっても部下指導の目安ともなります。
 
この札幌時代に実践してきた確率論を各地で講演し始めてから間も無く、ヤクルト野村監督による「ID野球IDはImportant Dataを意味する造語)が脚光を浴びました。
それに呼応して1992年頃、「ID営業」や「データ営業」なる本が売れたようです。
 
後に、BB営業部の淀川課長も「BB営業部のID営業」と称して講演していましたが、彼は私が札幌所長時代、何度か北海道エリア会議に出席し、私の考え方を熟知していましたから、私の確率論をアレンジしたものでした。
 
 
全国のエリア会議での一巡目はこの確率論でしたが、二巡目は戦略について講演しました。
 
基本的には「ランチェスター戦略」と「孫子の兵法」の実践例です。
 
主な話しとしては「広島・ピンサロボーイの戦略」から始まり、「小金井・国立攻略」「函館戦争」などですね。
 
参考)私の履歴書111《私の運命を変えた「ランチェスター戦略」との出会い》
^^^理論と実践。三名の社員は、広島・流川のピンサロ呼び込み員に瞬時にノックアウトされる。
参考)私の履歴書125 ランチェスター戦略の実践》
^^^ライバル社ファンの会長をトラックに同乗させて営業。国立市での戦略の実践。
参考)私の履歴書273 《背水の戦略とは!『徹底的に惨敗・敗走すること』 》
 
 
この他に、花王石鹸・コカコーラなどの戦略も織り交ぜての約1時間の講演でした、
 
でも、各エリアトップの支店長達には、営業戦略を直ぐに理解出来ないようでした。
無理もないですね。日本ではまだまだ根性と汗の精神論が主流でしたから。
 
初めて事業戦略で脚光を浴びたのが、花王石鹸の「商店サポートシステム」だったと思います。これは、単に自社商品の販売だけを目的にするのではなく、個々商店の繁栄というコンセプトで、一種のコンサルタント総合卸売業への変革ですね。
花王石鹸はこれで業績を急伸させたはずです。
 
これが1982年頃で、このような戦略的展開をする企業は、ほんの一部に過ぎなかったのです。
 
兆円企業のLL社でも、全国10支店の営業部長・次長のみ対象にランチェスター戦略セミナーを開いたのが1988年ですから、推して知るべし、でした。
 
参考)私の履歴書334 稚内攻略が出来ない兆円企業
 
私のエリア会議での講演で、私の持ち時間一時間を二時間に延長させてくれたのが、東海・北陸エリアの長である水島取締役名古屋支店長(仮称)でした。
 
流石、D銀行からの役員と違ってT銀行からの役員ですからハイレベルでしたね。
それに、トップが違えば部下も違いました。
 
ここのエリア会議への出席者(支所長・営業課長)の眼差しは光っていました。
故に、会議室での講演中、張り詰めた緊張感がひしひしと伝わってきました。
他のエリア会議では、単なる物語として聞いている人や半分眠っている人が大半。
 
二時間の講演が終ってから幾つもの質問がきます。
その日の会議が終ってからも質問が来ましたね。
 
無論、その後の飲み会でも。
それから何年後も。
 
それ故かどうかは分かりませんが、札幌の福知支店長の後任は、当時、ここ名古屋支店で営業ニ課長をしていた山吹君でした。
 
更にその山吹君の後任の札幌支店長もこの時、営業一課長だった田辺君でした。
当時管理職として一番若いこの田辺君の質問が最も多かったです。
 
それから幾年後、札幌支店長として三年間勤務後の山吹君が私に言った言葉
「いやー、札幌の三年間は楽でした。斎木君・魚住君・草野君の三名が優秀で、私は何もすることがなく、彼等が毎週段取りしてくれる接待ゴルフ三昧でした。
お蔭様で、シングルとなりました」 と。
 
この三名は、私の札幌時代、しっかりと戦略を身につけましたし、以後、福知支店長の下で彼等は課長として自ら戦略を練り、自ら実践し、自ら責任をとらなければならなかった故に、磨きがかかったのでしょう。
 
尚、社便箋十数枚に私が書いた福知支店長への営業引継書は、そのまま山吹君に営業引継書として渡され、更に山吹君から田辺君にもそのまま渡されたそうです。
福知支店長作成の引継書には、数字意外のことは無いに等しかったとか。。。
 
参考)私の履歴書374 怒り狂った彼の妻が包丁を投げる
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60316563.html
 
私が札幌を去ってからの十年後の2001年、斎木君と魚住君は、札幌から関東エリアへ管理職で転勤して来ました。
 
その後、斎木君は東北支店長に、魚住君は埼玉営業所長になりました。
 
尚、当時、現地採用の社員の場合、他のエリアには転勤不可が原則にも拘らずの転勤ですから、関東エリアでは、管理職の育成が出来ていなかったようです。