セーレン㈱川田達男社長(1993年当時53歳)との懇談会

 
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      私の履歴書・397
 
1993年、この後継者育成セミナーでは、ホテルでの缶詰の他に、企業訪問や工場見学、並びに訪問先企業の社長との懇談会がありました。
 
その中で印象深かったものを幾つか。
 
         
 
11月13日(金)、福井のセーレン㈱(東証3569)に行きました。
参考)平成24年3月期(今年度)通期連結業績予想 売上高865億円 経常利益41億円
 
セーレン㈱とは各種繊維品の染色加工業で、旧社名が福井精練加工㈱。
             http://www.seiren.com/
 
1889年創業 
1923年福井精練加工㈱設立 本社福井市
1962年大証二部上場 
1973年セーレン㈱に社名変更・東証大証一部上場
   
テレビCM
1.「サンデーフロントライン
 (テレビ朝日系列 毎週日曜10:00~11:45) 
2.「たけしのTVタックル
  (テレビ朝日系列 毎週月曜21:00~21:54)
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道中、遙か昔、1961年(S36)3月、中学三年の卒業式を終えた後、同級生の女の子三人が福井の繊維・紡績工場に就職するので、羽後本荘駅で夜行列車に乗る彼女等を見送ったことを思い出しました。
 
当時、僅か15歳の女の子が秋田の親元を離れ、福井の工場へ。親を恋しがり、布団の中で何度泣いただろかと想像しながら。
 
参考)私の履歴書・48(中学時代21) 同級生の集団就職列車の話し
 
或いは、1967年頃の鐘紡長浜工場内で、女子工員と深夜にお喋りしたことを。
 
参考)私の履歴書・75 深夜、鐘紡長浜工場内での女子工員との懇談
 
午後1時半、セーレン㈱に着いて一旦会議室で企業説明を受けてから工場見学。広く明るい工場内では、機械は動いているものの、人が一人二人しか見あたりませんでした。
注)これは、同じ頃、カラーテレビを製造していた三菱電機京都製作所の工場よりも人が少ない。
 
次に入ったのは研究室。そこではパソコンを駆使し、随時好きなデザインで何万色をも使って、小ロットで、然も短時間に生地にプリント出来る工程説明を受けました。
 
このシステム全体が革命的なものでした。
後の「ビスコテックス」です。
 
注)ビスコテックスとは企画・製造・販売まで一貫したセーレン㈱独自のデジタルプロダクションシステム。小ロット、短納期、在庫レス、オンネット、カスタマイズを実現し、「ほしいものを・ほしいときに・ほしいだけ」作る環境に優しい究極のビジネスモデル。http://www.seiren.com/products/visco/
 
実は、福井のセーレン㈱本社訪問は、このセミナーの予定外のことでした。
 
この本社工場を訪問する8ヶ月前の3月11日(水)~13日(金)のニ泊三日の合宿の時でのこと。場所は大阪市中央区のホテルだったと思います。
 
二日目(12日)午後1時から約4時間、「企業再建」をテーマとしたセーレン㈱川田達男社長の講演と懇談会がありました。
 
私達受講生26人は、川田社長の歴戦物語に感動し、是が非でもセーレン㈱本社工場を見学したいとの要望が11月にかなったのでした。
 
さて、その3月の川田社長の講演の状況とは。
 
長方形に配置された会議用テーブルに座って待つ我等26人の前に現われた人は、我等と年齢差を感じさせない軽快な素振りで謙虚な営業部長の雰囲気でしたね。
 
この人が社長?
当に、サラリーマン社長でした。
確かスニーカーのような白い靴を履いていたと思います。
 
彼は1940年生まれ。社長就任が1987年ですから、彼が47歳の時。つまり、このセミナーに参加している我等とほぼ同じ年代に社長就任。
 
この我等との面談の時は、社長就任6年目、53歳の時ですね。
 
注)川田社長が一躍時の人として脚光を浴びたのが、この時から12年後。川田社長は、2005年3月「産業再生機構の支援下で経営再建中のカネボウ繊維部門を引き受ける」と発表。下請けのセーレンが元請を買い取るM&A。そして、このカネボウを僅か2年で黒字化した。
 
それから彼の話が始まったのです。
どうして、どのようにしてこの斜陽産業の染色企業を再建したかを。
 
                   つづく
(続編)

私の履歴書40代本社編目次