逆境があったからこそ
私の履歴書・398
前回に引き続き、1993年、セーレン㈱川田達男社長との懇談会の話しです。
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その新卒研修期間、この企業は単なる下請企業に過ぎないことを痛感。この染色賃加工業では何れ滅亡するとのレポートを提出。メーカー志向ですね。
生意気な奴として異端児扱いとなり、新卒の中で彼のみが染色工場に配属される。他の新卒者六名は、全員、本社配属なのに。
つまり、入社早々、彼は左遷されたのです。ここでの五年間、毎夜のように工員と酒を飲み交わし工場の実態を把握。
いつの間にか彼は押されて労働組合の委員長になります。
そこで会社に対して色々な改革を要望していくのです。
注)彼の経歴書に労働組合委員長という項目は何故か見当たらない。私の記憶違いか? 確か彼は先頭に立って赤い旗を振ったと言っていたはず。
1975年、営業開発の課長就任。実は、ここは窓際族の部署。メーカーから発注書を貰うだけで会社は飯が食えていたから新規顧客開発は不要。
ここで同じく窓際族の部下二名と共に顧客開発をするのです。繊維の染色に関する色々な注文をとってきて工場で生産する。
彼は、繊維の座席シートカバーの試作品を作ろうとするが、上司は許可せず。「俺の目の黒いうちは、試作などはさせない」と言って。
それにも拘らず、彼は原糸の調達や生地を織る関係先の会社を熱意で説得。工場では「川田の為なら」ということで、早朝や深夜、会社に内緒で生地に染色。
耐久性のあり然も感触の良い座席シートカバーを開発。紆余曲折を経て1976年、トヨタに出荷が始まり、大ヒットとなります。
換言すれば、単なる染色の下請けからの脱皮の序です。
1979年(S54)製品営業部部長
1981年(S56)取締役部長
1985年(S60)常務取締役(末席)
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繊維業界は70年代以降、斜陽化が進み、80年代に入ると安い海外製品に押されます。構造不況です。旧経営陣は何等手を打てず。
1985年、常務取締役に就任の頃、既に会社は大きく傾いていました。1983年5月期から三期連続で経常赤字。
彼が社内の反対を押し切って開発した自動車用シートカバーだけは大きく伸びていたが、会社そのものは倒産寸前の状態。
創業家出身の社長は倒産の覚悟をします。
銀行がセーレン㈱を見放したのでした。
直ぐに彼は増資を行い、他方、銀行と交渉し、大借金をします。彼の企業の未来への熱意と不退転の決意が銀行を動かしたのでした。
以上が、私の記憶にある18年前の川田社長のお話です。私達が会った当時の川田社長は、ひたすら前へ前への時代でした。
注)社員のやる気を引き出す「よく見つけたね運動」が軌道にのるのはその後のこと。
川田社長の熱意溢れたお話が終ってから私達の質問の時間となりました。
最初はシーンとして誰も質問をしないので敢えて私が質問しました。このセミナー参加の皆さんは管理部門所属ですから質問でも慎重なのかも。
この時の全体の質問は6個だと思います。
その中の3個が私でしたね。
処が、私は自分のした質問の内容は記憶にあるのですが、川田社長の回答の内容は記憶に無いですね。でも、確か、川田社長と同じ考えだったと思います。
私の質問
その1)
新卒で入社の頃の左遷の工場勤務での下積み時代があったからこそ、全体を知り、そして社内人脈が出来たのではありませんか。
その2)
私も30歳の時、東京支店に転勤。東京支店長から「君の部署は潰してやる」と言われました。私は、こんな奴に負けてたまるか!と思い、逆に燃えました。
社長も、新卒や課長時代、上司に虐(しいた)げられたからこそ、それがバネとなったのではありませんか。
参考)私の履歴書・119 火の中に飛び込んでしまった夏の虫
その3)
京都市内の銭湯経営者の大半は、北陸の福井・石川・富山出身でした。京都人は重労働で然も小銭の銭湯代を集める日銭商売をバカにしていました。
参考)大阪は京都と同じ。他方、東京での銭湯経営は新潟県人が半数。
以上が私の三つの質問でした。
つづく
(続編)