戒めの七針
私の履歴書・387
同じく本社着任した1991年2月下旬のこと。
早速洗礼を受けました。
吉田本部長に芥川女史(当時50歳)、そして私の部下の原事務員(入社2年目京女卒25歳)との四人で居酒屋に行った後、祇園に行く事になりました。
参考)芥川女史については、以前、記事に書いていましたね。
居酒屋から外に出てタクシーを拾おうとするも、なかなか空タクが来ません。
並行している二本の道路をまたぐGS(ガソリンスタンド)の傍に立ちました。
ここでしたら両方の道路を走る空タクを拾えます。
GSの敷地にはロープが張られていました。
そのロープをまたいでGSの敷地を横断し、両方の道路を往復したのです。
「水無瀬君、こっちに空タクが来たよ!」
走って向こう側の道路に行くと、空タクはどういう訳か直進して来ず、傍の交差点で曲がってしまいます。
このような事が何故か二度続きました。
季節は二月堂のお水とりの前ですから、まだまだ京都の夜は半端じゃない底冷え。
私はコートに両手を突っ込んだまま、GSの敷地の横断を繰り返していたのです。
「水無瀬君、来たよ!来たよ! 早くこっちへ来て!」
私は、急いでGSに張られているロープをまたいで越えたつもりでしたが、私の顔は、まっしぐらに地面に向かうではありませんか。
両手はコートのポケットの中。
かばい手は出せない。
身体を少しひねれたものの、ノーガードで私の顔は地面を激しく打つ。
ロープに足が引っかかったのでした。
起き上がると左眉間から鮮血が!
メガネのプラスチックレンズが外れ、私の眉毛に食い込んだのでした。
冬の札幌すすきのでは、アイスバーンで滑った時のかばい手として常にコートから手を出して歩くのが鉄則で、いつも両手を出して歩いていたのに迂闊でした。
近くの救急病院に駆け込み、眉毛を七針縫いましたね。
尚、切れた場所が眉毛の中なので、縫った後の傷は全く見えないのは不幸中の幸いでした。
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と言っても、この時は泣きっ面に蜂。
私のべっ甲の眼鏡フレームが壊れたのです。
付き添ってくれた芥川女史からは、しっかりと説教されました。
やはり、先輩女史は1枚上手でした。
「如何に上司の指示といえども、その通りイチからジュウまで聞いたのでは身体が持たない。だから、適当に抜くことを覚えなさい!」
尚、その後、性懲りもなく事ある度に吉田本部長とは祇園には出かけました。
彼は好きでしたね。それと彼の自宅は祇園からタクシーに乗っても直ぐ。
私の場合は、高槻のはずれですから、祇園からタクシーで40分はかかる。
午前1時頃にタクシーに乗るも、道が混んでいるときには約1時間。
タクシーの中で一眠りし、自宅に着いたら目が覚めて眠れないこと度々。
翌日は、いつもの通りの出勤ですから、連夜だとへとへとでしたね。