超赤字会社が一転、超優良企業へ




≪前回記事≫

私の履歴書40歳代本社編
「部長心得就任と部署内の反発』 2016/6/16(木) 

私は部下の北村主任に言った。
「明日の午後、私はAB社の羽田社長と会い、新商品の提案をする。もしも君が明日、AB社に行くなら、午前中に君から提案をしていて欲しい。君があくまでも提案を拒否し、私が提案することになると、いいかい、AB社からみた君は、なんの存在価値もない男となるのだよ」


≪AB社(仮称)とは≫

昭和49年(1974年)12月設立の㈱ウズマサの子会社。構成は、当時の日本では有名な某オーデオーメーカーの営業部門。

1970年に入ると、某社は後にオーデオ御三家と言われる山水電気、パイオニア、トリオ(後のケンウッド)に押され経営不振に陥る。そこで某社は営業部門を切り離し、主力銀行を介して㈱ウズマサに紹介。この営業部門を㈱ウズマサが引き受け、社名AB社として新会社を設立。

設立当初の役員に早稲田大学出身の羽田氏と慶応大学出身のO氏がおり、この二人は事あるごとに対立した。この現象を部下たちは『早慶戦』と揶揄(やゆ)した。だが何年か後に、慶応出のO氏は去った。『早慶戦』での早大の勝利である。尚、O氏の思考は当初からお坊ちゃんと言われていた。

この経緯は、この子会社AB社は、設立後、間もなく超赤字会社で潰れかかった。オーデオ業界から全く別の業界での営業展開には限界があるのは寧ろ当然と言える。このAB社担当の山村部長の要請で、私の粗利益1億1千万円の契約と顧客をAB社に渡した。

(参照)私の履歴書 40歳代本社編
No.124 『上司の罠(わな)』 2009/2/25(水) 

然し、AB社内部では、私の獲った契約を私に代わって履行するかどうかで騒動が勃発した。会社存続のためには履行すべしとする羽田氏と、畑違いでプライドが許さず拒否すべきとするO氏が鍔迫(つばぜ)り合いを演じたのである。

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ある日のこと、私は山村部長に都内の喫茶室ルノアールに連れていかれた。そこでは、AB社の羽田氏とO氏がテーブルをはさんで対峙しており、それぞれの後ろには4~5名の社員が立ったまま固唾(かたず)を飲んで控えていた。

当初、私は山村部長がどうしてこの場に私を連れてきたのか分からなかったし、彼らの論争の途中からだったので話している内容をよく理解出来なかった。ある社員が私の耳元で囁(ささや)いた。「早慶戦だよ」と。

以降、羽田氏グループは私の獲った契約履行に邁進し、他方、O氏グループは、このAB社の設立趣旨に遵(じゅん)じた営業を展開した。

結果、AB社の業績は躍進。超黒字企業に変身。羽田役員は社長に就任し、㈱ウズマサグループでの優秀管理者賞として表彰される。反して、O氏グループはたいした業績もあげられず、O氏はいつの間にか会社を去った。そして私は何故か汚名を着せられる結果となる。


さて、本題の続編

   ☆   ☆   ☆

翌日の午後一番で私は新宿早稲田のAB社訪問。
羽田社長と経理部長の二人と面談した。

羽田社長 「いや~、今日の午前中、おたくの部下の北村主任から素晴らしい提案を受けまして、早速、その新機能の装置の開発要請をしますよ。」

私 「それは有難う御座います。本来、私の部署が開発費を捻出すべきなのですが、今年度の私の部署の開発予算に余裕が無いものですから、ご難儀をおかけします。」

AB社が負担する開発経費の確保について、羽田社長は、これから親会社の太秦社長とグループの金融企業との交渉を早速始めるという。

   ☆   ☆   ☆

一ヶ月弱後、この装置の開発を本社工場の設計課伊田課長が担当。数か月後、試作機まで作り上げたのだが、うまく動作せず。彼の能力の限界でもあった。

そこで、子会社の三島社に依頼し、新たな試作機でまともに作動できるところまで作り上げ、その基盤の組み立てを台湾の企業に依頼し、製品化した。

この装置を本社工場では既存の機器に取り付け販売したところ、案の定、飛ぶように売れ、受注に対して生産は追いつかず。、

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工場での完成品出荷日では、一日でも早くこの機器を入手したい幾つかの企業が手配した10トントラックが列をなした。インベーダーゲーム機以来のことである。

この新装置付き機種販売で瀕死状態のAB社は一転、不死鳥の如く超黒字優良企業に変身したのである。
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何せ従来機種での業者卸価格一台@70万円でも充分利益があったものに、原価@9万円の装置を取り付けただけで@50万円アップの一台@120万円で売れたのである。そしてその状態は、3年も続くのである。

他方、設計課の伊田課長は、この装置の実用新案をとったから、ライバル社からの競合機種出現の恐れは当分なくなったのである。

   ☆   ☆   ☆

この快進撃がマスコミに伝わると、一般紙や経済誌の記者が、AB社の親会社である㈱ウズマサの太秦社長にインタビューでやってきている。

その都度、太秦社長は紙上でこう述べている。

「あの装置は私(太秦社長)自らが考案し、製造させたものである」 と。
そして、商品開発に関しての自説をとくとくと展開したのであった。

   ☆   ☆   ☆

AB社の羽田社長は、ウズマサグループでの最優秀経営者賞を受賞。
設計の伊田課長も最優秀技術者賞で表彰された。

尚、羽田社長は1976年の粗利益1臆1千万円とその顧客を渡した時と同様、その17年後の今回でも私を多少でも称えることは決して無く、寧ろ陰で私批判を展開した。これが早稲田魂なのであろう。


私の履歴書40代本社編目次

インベーダーゲーム画像借入先)
(不死鳥画像借入先)