竹林はるか遠く(7)完結編


兄ヒデの北朝鮮脱出劇の続編に続き、ツムラ伍長の温情、更にはナイド氏の優しさと続き、最終章は兄ヒデヨとの再会です。

後半、貧困の局地にありながらも、数歳年上の姉と二人で生き生きとした十数歳の少女時代を描いた体験談はここで終わっています。

竹林はるか遠く(2)
竹林はるか遠く(3)
竹林はるか遠く(4)
竹林はるか遠く(5)
竹林はるか遠く(6)


改めて、
 ●ヨーコ(当時11才-12才)・・・著者本人
 ●ヒデヨ(当時13才~16才と思われる)・・・著者の兄
 ●コウ (当時16才-17才)・・・著者の姉

以下、この続編 『竹林はるか遠く(7)』 です。

          ◆       ◆       ◆

思った以上に水は冷たく流れが速い。
ライトが来るたびに潜り、ザックだけが流木のように出るように。
何度も何度も潜らなければならなかった。
銃撃音が聞こえた、ヒデヨに撃ったのか、他の者か、野生動物へかは分からない。
ヒデヨにライトが来て、深く潜った。再び銃撃音。
銃弾はヒデヨのバックに当たり、水面に入っていく。
水中を銃弾を貫く音があちこちする。ヒデヨは更に深く潜る。流れが彼を運ぶ。

南岸についたとき光が当てられたが、疲れ果てて死んだように横たわる。
茂みを這って行く。
彼は危険な38度線を脱出した。
自由の深呼吸をした。
神とキム家に感謝し、彼らが夢で私が越えられたとみられればと思った。
朝鮮服、毛布、家族写真、は毛皮コートで守られてて湿っただけだった。
川にかなり流されて、方向が分からない。濡れた毛布を広げ眠る。

起きた時、まだ明るかった。
おにぎりとキムチを食べる。
ニンニクの漬物を食べると、吹雪のキム家を思い出した。

ヒデヨは死の淵から危うく助かった。
捕まることも恐れる事も、撃たれる事もなくなった。
喜んで歩いた。道路を探して藪を通る。
農家でソウルまでの方向を聞き、早歩きで向かう。
40マイル(約64km)黄麻袋で歩いた。
日本人のリュックサックはある理由から彼は使いたくないと思ったのだろう。
たぶんキム家への感謝の念だろう。

ソウルについてすぐ駅に行く。
メモにソウル駅で待っていると書いてあった。
姿が見えないので駅の職員に聞くが余りに沢山の日本人の母子が来てたので分からなかった。
七夜彼は駅の隅に寝泊まりし探した。
家族は死んでるんじゃないかと思いだした。

赤十字に行って調べると、川島の名前は無かった。
たぶん家族は運よく帰国できてるのだろう。

避難民証明書をもらい、釜山へ向かい船で帰国の方向へ。
ナナムをでて8カ月で初めて列車に乗る。貨物のフラットカーに乗る。
非難民でかなり混んでいるが狭いスペースに座る。
歩かなくていいのが彼にとってとても幸せだった。

姉妹の「釜山で待つ」という柱のメッセージは気がつかなかった。
釜山港は定期便で避難民は日本に帰国していた。

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ヒデヨは舞鶴に上陸した。
新聞で名前が書かれてないか調べた。
「妹が書いてる!」ヒデヨは叫んだ。

<12.再会 >
寒い冬はコウと私にとって辛かったがマツムラ伍長との再会で何とか耐えられる。
伍長さんと奥さんは、たまに残り物、糸、干物、漬物、米を送ってくれる。
伍長は注文をとって着物生地でコウに服を作るよう求めた。
遠くに住んでいるけれど、荷物や手紙が来るたび、近くにいるように感じた。
毎回、切手を同封して、私達がどうしてるか、勉強の進み具合を聞いてきた。


ある日、伍長は「人捜し」のラジオ番組に、父とヒデヨの名前を出してもらうと書いていた。
週末の10時か、平日の6時。
私達はマツダさんの許可を得て、平日の6時にラジオの前にたった。
伍長が話しているかのようにラジオの棚を見上げた。番組が始まった。
「川島ヨシオ、その息子ヒデヨ、について何か知っている人、盛岡の絹織物会社へご連絡を」

                      ☆
(参考)
散り散りになった親子兄妹、親族、親しい知人の互いに探し求める声が、「尋ね人の時間」に寄せられた。引揚げ者のほかにも、大空襲で四散した家族などの探し求め合う声でつづられたラジオ番組は、昭和20年から昭和36年まで15年以上も続き、人々に戦争が未だ終わっていないことを印象付けた。

                      ☆

私達は、商品を作り続けた、週末は舞鶴へ新しい名前の紙をもって行った。
空いた時間でコウは私に、伍長から戴いた生地でブラウスとスカートの作り方を教えた。
生活は少し楽になった。今必要なのは父とヒデヨだけだった。     

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何にそんなに時間がかかてるのか?妙心寺の森に鳥が歌い、桜も咲いているのに。
鳥はまもなく巣を作り、家族ができるでしょう。
死んでいる?死んでいると知ったてたら希望を捨てる、でも知らないのが苛立たせる。

学期が終わり、成績はオールA。
でも、授業料使い果たしたので、もう学校に行けない。
償却炉に行き、ナイド氏に通知票を見せた。
「やったね」笑顔になった。
カンの売上3円にお祝いの2円を足してくれた。
彼は誠実な友人、彼は他に話す人がいない。
私はやめる事を言えなかった。

アサダさんは午後に花見に行くと知らせた。
みな興奮していた。彼らは荷物をカバンに詰めていた。
私は花見がそんなに大したことか?と思った。
私の心はそんな遊びの余地は無かった。
もっと重要なやる事があった。

そして、私は新たな心配があった。
黒板の字が見えなく、先生の声が聞こえづらくなった。
コウの大学のスタイルショーを見に行くのを理由に花見に行くのを免除してもらうようお願いした。
しかし、スタイルショーには行かず、飛び込み営業でコウの服を売り歩く。
売れる度、お金をコウの作った小さなバックに入れ、ズボンのポケットにも入れた。

コウの夕食の準備の為に急いで帰った。
天気が良いのでコウは靴磨きをしている。
また、私達が6時のラジオを聞くために。

しかし、今夜は何か良い物を食べたかった。
魚。カンの売上、服の売上、ナイド氏の褒美がある。
雑貨店で魚を買い、残りの1円でティーバックを買った。
私の通知票のお祝いとして...。
小川で魚の鱗を落とす。土の上にはタンポポが生えている。

竹の葉で魚を包み、バケツと包丁を持ってきた。コンロを作るのには慣れていた。
火の中にバケツの水とタンポポの葉を入れる。
タンポポの葉が縮むので魚を取りだしてまたバケツの水汲みに戻る。
コンロに戻った時、工場のガラスドア越しに一人の男が見えた。

彼は黄麻袋を腰につけた朝鮮式の服だった。
朝鮮時代、李夫妻がつけていたのを覚えている、何も運ばないときは頭につける。
しばらく私は幸せだった過ぎし日を思い出していた。
また、タンポポを取りに戻るとき、男は雑貨店に向かっていた。
おそらく彼は朝鮮人でここら辺を知らないのだと思った。
彼は朝鮮人で日本ができなく、道に迷ったんだと思った。
おそらく、私は彼を助けられる。
しかし魚の串を探してコンロに置いて、草を絞らねばならなかった。

それから私は倉庫の前に出て行った。
彼は振り返り戻ってきた。
彼はこっちに向かってきた。
「今晩は」完璧な日本語だった。

私は彼が近くに来るまで待って、よく見えるようになった。
「おお!ヨーコ!おお!ヨーコ!」走ってきた。

私は一瞬何が起こっているのか分からなかった、そして叫んで兄の腕の中に飛び込んだ。
「おかえり!兄さん!」

その夜、私は3つの寝床を作った。
一つは兄によく眠れるように。
星が輝いていた。
ナナムを出てから最も美しく見えた。
再会の喜びの為の花火のようだった。

-完-

※父は6年のシベリア抑留後、帰国した。

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長文をお読みいただき、有難うございました。
読後感としてはいかがでしょうか。
米国の中学の副読本でしたが、日本の中学生にも読ませたいものですね。

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(お詫び)
本記事を書くにつき、多方面の記事や画像を借用しております。
お詫び申し上げます。


(文字起こし原本)

(改めて出版の本の紹介)


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竹林はるか遠く
日本人少女ヨーコの戦争体験記

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ 著 
監訳 都竹 恵子 訳 2013.07.11発行
定価 1575円(本体 1500円)