阪神淡路大震災での対応
私の履歴書 40歳代 本社編
明日1月17日は、阪神淡路大震災から18年になりますね。
下記は以前の記事を加筆と修正をしたものです。
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私は1991年着任した営業本部営業企画課長を3年務めた後の1994年2月営業本部産業機器営業部(通称 IM部 仮称)の部長に就任。
(注)IM部とは Industrial machine sales department の略称
組織は、IM営業部として三つの課(三人の課長)を持ち12名。
配下に、各支店の産業機器課7箇所(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡)を持つ。
◆
着任した翌年の1995年1月17日死者6436名を出した阪神淡路大震災。
京都本社は何事もなかったが、ここ水無瀬はこの地震に襲われる。
神戸から続く京都・嵐山への断層の線上に水無瀬があるからだ。
神戸から続く京都・嵐山への断層の線上に水無瀬があるからだ。
ところが、夏になるとピタリ!!と止む。
それから半年後、当に、不意打ちの大地震であった。
それから半年後、当に、不意打ちの大地震であった。
☆ ☆ ☆
その日、1月17日(火曜日)5時46分過ぎ
私は、妻に身体を揺すられる。
覚醒。
暗闇の中、ゴォ~~~と言う音。
襲って来る。何かとてつもなく大きなものが。
反射的に立ち上がる。
迫る轟音が直ぐそこに迫ったとたん、もんどりひっくり返った。
床も天井も激しく動く。
ただ事でなない!
リビングに出るも、天井の四方八方隅々から「バチバチ」、台所から「ガチャガチャ」
けたたましい!!
耳が割れそうだ。
コロの付いたテレビは、リビングを右往左往。
コロの付いたテレビは、リビングを右往左往。
直ぐに隣の息子の部屋へ。
ベッドの息子は無事か!
四間向こうの娘の部屋に急ぐ。
転ぶ!
転ぶ!
立ったら又転ぶ。
壁に手を付けていても転ぶ。
僅か四間で四回転倒!
僅か四間で四回転倒!
娘よ! 大丈夫か??
辛うじて娘の部屋にたどり着く。
本棚が娘に覆いかぶさっている。
娘の名前を呼ぶ!
辛うじて娘の部屋にたどり着く。
本棚が娘に覆いかぶさっている。
娘の名前を呼ぶ!
倒れた本棚の下から娘の声!!生きている!
ベッドの端がつっかえ棒の役割をしていたのだ!
ベッドの端がつっかえ棒の役割をしていたのだ!
無傷!!
リビングに戻ると、そこはゴミ捨て場と化している。
余震は続く。
自分の布団を見て驚く。
布団の上にはタンスの飾り棚。
布団の上にはタンスの飾り棚。
こいつが重たい。
転勤族に桐タンスはバラバラになるとの話で材質は桜。
飾り棚だけで二十キロはある。
もしも、直ぐに起き上がらなかったら?
ドスンと両脚に落ち骨折だった。
灯りは?
ろうそくを探し当てる。
ラジオはないか?
カセットに付いているラジオ。
カセットに付いているラジオ。
電池が無い!
単一が六個要る。
単一が六個要る。
あと一個足りない!
アッ、そうだ! 瞬間湯沸かし器に一個あるはず。
一本のろうそくの灯火に家族四人が身を潜める。
ラジオに耳をそば立てる。
時間が経過する毎に、被害は大きく報道されて行く。
顔、歯磨き、トイレ、水だ!
風呂に水があるぞ!
バスルームに走る。
だが、風呂の水はほとんど空だ。
揺れて、ザブン、ザブンと何度も揺れて、水が飛び出したのだ。
揺れて、ザブン、ザブンと何度も揺れて、水が飛び出したのだ。
助かった事がある。
札幌時代、買い換えたソファ。
これが、札幌のマンションのサイズではピッタリなのだが
ここでは大きすぎる代物。
ここでは大きすぎる代物。
この大きくて重たいソファが、リビングの棚の倒れを防いでくれていた。
寝る前に端に寄せた電気こたつが、リビングの飾り棚の扉の開放を防いでいた。
☆ ☆ ☆
夜が明ける。
先ずは散乱している瓦礫をどかし通路を作る。
朝食は何を食べたのか記憶がない。
雰囲気はゴミ漁り場で拾った握り飯を分けて食べる親子4人。
阪急電車は走っている。
だが何となく本数が少ない。
いつも自宅を出る時刻なのだが、今日は遅刻しよう。
8時過ぎに出かけようとするも、電車が走っていない。
会社に電話するも通じない。
何度かかけ直してようやく通じる。
8時20分、再度電話をしようとするももう電話は通じず。
9時になっても電車は動いていない。
10時になっても。
自宅を出て水無瀬駅に着くが電車の運行見通し無し。
直ぐに国道171号線に出て手を振る。
こうなったらヒッチハイク。
乗用車は目の前で寧ろスピードを増す。
こりゃダメだ!
大型トラックが停まってくれる。
京都に行くとのこと。
神様仏様。
その助手席に蹴上がる。
そして無事出社。
驚いたことにほぼ全員出社していた。
部下の北村君(仮称)を除いて。
車やバイク通勤者にとって支障はなかったとのこと。
然し、電話のベルの鳴らない事務所には休日の雰囲気が漂う。
電話が通じたと思ったら神戸で若手社員が亡くなったという訃報。
民家一階に間借りしていた社員が、二階に押しつぶされ即死。
翌日、18日(水)電車は普通通り運行。
出社するも、11名の部下の内、北村主任だけ出社せず。
風邪で熱が出て今日は休むという連絡。
「こんな時こそ神戸の顧客に救援物資を運ぼう」と私。
部下や同フロアの他部署部長連中が「そんな無茶な」と言ってくる。
私は私の部署がこの震災の地・神戸に入ることを『IM(アイエム)学校』と命名。
部下育成の一環と位置づける。
とにもかくにも神戸の顧客名簿はと聞くと北村主任が持っているという。
この頃、神戸エリアは大阪支店や神戸営業所では手が回らないということで、臨時に我が部署が担当していた。
処がその名簿は彼の机の中には無い。
大津市の北村主任の自宅に電話を架けさせる。
名簿は自宅に持ち帰っているという。
何ということだ。
誰かに取りに行かせると言ったら、明日は出社するという。
午後、大阪支店産業機器課の二名がやってくる。
名簿はさておき、どうして神戸に入るかの検討。
車では大渋滞で到底無理。
しからば、リュックを担いで電車に乗り、行けるとこまで行ってそこからは徒歩で神戸に入るか、或いは会社から自転車で神戸まで走る。
神戸三宮まで約70km。
荷物を載せ、信号、道路の起伏、大渋滞の場合歩道走行となるから時速15kmが限界。
それでも片道約5時間かかる。
往復10時間。
それしか手はないのか。
トラックに自転車と物資を積んで行けるところまで行ってそこからチャリンコの案が出る。
でも会社には我らが使えるトラックは無いし、チャリンコもない。
ではどうするのか。
チャリンコがあるところと言えば各家のママチャリ。
ではトラックは?
部下の向島係長の家は農家。
軽トラックを持っている。
それだ!
最先端の駅では恐らく混雑していて、車も近づけないかもしれない故。
集められるチャリンコは8台。
ということはチャリンコに乗る人数8人。
ここは部下の中から体力のある若手5名。
大阪支店から若手2名と私の計8名。
早速、手分けをして薬局やホームセンターに物資を買いに走らせる。
19日(木)
北村主任、またまた風邪で熱が下がらず会社を休むという。
名簿は必ず明日持参するという。
何ということだ。
何等かの力が働き、我等の神戸行を妨害している。
「君がもし明日も来なかったら、君は・・・・」それ以上言うのは止める。
約100名弱の営業本部フロアの大半の眼差しは冷やゝか。
「あんなに崩れがかっている所に行って再度大地震がきたら怪我だけでは済まないぞ」と言ってくる他部署の部長もいる。
社内の廊下を歩いていると、総務の女子社員から声がかる。
「水無瀬部長、神戸にいかはるのですか?」
どうやら、噂になっているようだ。
20日(金)
ようやく北村主任出社。
彼の持っている顧客名簿に基づきエリア分けをしてエリア毎、二名でひと組とし、4組編成にて訪問エリア担当を決める。
『IM学校』決行は翌日21日(土)。
つづく
(続編)
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