社会の常識を教えない小学校

私の履歴書・408
 
 
再々度、1991年春に戻ります。
春休み中に家族は札幌から高槻市の会社の寮に引っ越しました。
 
本当は、自分の選ぶ住居を会社契約として借り上げても良かったのですが、ここは1983年(S58)前後の約3年間住んでいた所ですから、下の子の小学生の息子にとって幼友達がいるので安心したからです。
 
処が連休後、息子が学校に行きたくないと言っているとの妻の報告。
どうやら学校では同時期に転校してきた子と息子の二人がクラスで爪弾(つまはじ)きをされている様子です。
 
これは息子にとっては初めてのことでした。
今まで幼稚園が二箇所(広島→高槻)、小学校が二箇所(広島→札幌)、私の転勤で転校したのですが、こんな問題は起きませんでした。
 
 
理由を聞きますと、「同和」とか「部落」の実態を知らない故だそうです。
それもそうです。広島、札幌での子供の世界では無縁でしたから。
 
ここでは「同和」や「部落」を知らないことが差別となっていたのです。
「どうしてそれを知らないことで差別されるのかをホームルームの時間で話し合ってみたらどうか」と息子に提案するも、
 
そのホームルームの時間も同和教育授業に充てられていて、クラスでの色々な問題に関して話し合う時間は無いのだそうです。
 
(注)この他に毎週「部落問題学習」という同和教育の正規授業がある。
更に国語や社会の授業でも、殊更部落問題と結びつけるとの事。
 
 
6月の父の日、父親参観日があったので現状確認で出かけました。
確か穏やかな日差しのお天気の日曜日でした。
 
授業が始まる15分前に持参したスリッパに履き替えて校内へ。
処が廊下は砂でジャリジャリ。
出入り口には砂落としマットがあるのに。
更に子供達は廊下を走り回りぶつかってくる。
 
参観日にこれでは・・・・・
 
教師は児童に日頃掃除の仕方も教えていないし、廊下は走るものではないことも教えていないということになる。
つまり社会の常識を教えていないと痛感しましたね。
 
教室に入ると父兄では私が二番目。
そこも同じく床は砂でジャリジャリ。
 
教室の後壁には子供たちの描いた父親の顔の絵が貼られています。
それらのものを見終わった頃、順次他の父兄が入室してきました。
 
そこで私は後ろの一番奥の窓際に立ちました。
そこでもびっくり。
 
アルミサッシのガラス窓の縁全体にガムテープの剥がしたあとが残ったままではありませんか。然も全部の窓枠に。
 
どうなっているのだ! この小学校は!
石油を染み込ませた布でこすると取れるじゃないか!
 
教師は何故こんな簡単なことを子供にさせないのだ!
教師は何故児童が学ぶ教室や廊下をきれいにしようとしないのだ!
 
 
 
やがて一時間目の算数の授業が始まりました。
子供の算数は大人にとって結構難しいですね。
 
授業も半ばになると、五月雨式にやってきた父兄達は教室の後部には入りきれずに廊下側壁に立つ人もいました。
 
40歳過ぎの女性教師は新たな算数の問題を黒板に書いた後、教室の半ばまで歩み寄り、私たち父兄に向かって言いました。
 
「この問題を解けるご父兄の方、いらっしゃいますか? いらっしゃいましたら手を挙げていただけませんか?」
 
問題を一見した時、これは児童には難しすぎると思っていましたが、まさか我らに対しての問題だったとは思いもしませんでした。
 
然し、何の為に? 
 
大人なら子供の算数は分からないかもしれないのに。
でも、私を除いて皆30歳前後の若々しく賢そうな男性たちですから一人や二人解ける人がいるかもしれない。
 
と思いながらも、児童の答の出し方が分からない故、急遽、薄い記憶の中から数学の公式を引っ張り出し、頭の中で計算し答えを出しました。
 
もう誰かが手を挙げているだろうと父兄の列を見渡すも誰もいません。
子供達は振り返り後ろの私たちを見ています。
 
そこで私は息子の名誉の為に徐に手を挙げました。
と、教師のびっくりした目と私の目が合いました。
 
とたん、くるりと背を向けて教壇に戻り児童達に向かって言いました。
「さ、できた方はいるかな?」
 
いるはずはないですね。
 
 
帰宅するなり妻に言いました。
「家を買って引っ越すぞ」
「何処へ?」
「とにもかくにもこの学区から離れなければ」
 
 
私たち家族が札幌から高槻に引っ越した三ヶ月前の寮はガラガラで、一戸2DKを二つ使わせてもらっていました。
 
処が、この春から初夏にかけて会社の若手の社内結婚ラッシュ。
皆さん、会社の寮に住みたがりました。
それもそうです。何しろ家賃は2DKで6千円ですから超安値。
 
 
翌週以降土曜日曜は朝から妻とS不動産㈱のT君の車で物件巡り。
京都市と茨城市間の阪急電車沿線とJR沿線を探しました。
 
偶々部下の女性が両親と住んでいるマンションと同じ棟の同じ5階も売りに出ていましたので興味本位に行きました。
 
5階建てのエレベーター無し。
成る程と思いましたね。
彼女の背の高さは172cm。
細身だが腰周りにはしっかりと筋肉が付いている。
それにスラリとしたカモシカのような長い脚。
 
京都・上賀茂の京産大の坂道程ではないにしろ、彼女の母校である京都・今熊野の京女の坂も楽にのぼったはずです。
生まれてから二十四年間、この階段を上下した結果があのような見事なスタイルを創造するものだと痛く感心しましたね。
 
 
幾つもの物件を見てきますと、もう外見だけで中も想定できました。
お気に入りは無かったのですが、強いてあげれば、他の物件のレイアウトの参考までとして見た阪急水無瀬駅近くの物件でした。
 
でも、それは他の不動産会社名義の物件で、これまで売りに出してはおらず、6年間空家でした。
 
それじゃということで、こちらが買値を提示。
当時不動産の値段は下落しつゝありましたのでそれも含んでのこと。
 
当初は販売拒否されましたね。
でも時代の流れは不動産下落。
 
どうして売らないかの事情は分からないけど、何れ手放すのでしたら今がチャンスとして説得し、俎上に載せました。
 
私の提示価格と相手の要望価格差が大きすぎたがお互いに歩み寄ってその差が30万円。それがお互いの限界。
 
こうなったら意地ですね。
きっぱりと断りました。
 
処が、それから毎夜の如く、S不動産T君から電話がかかってきます。
 
電話がかかって来たからと言って30万円安くなるのではないのです。
帰宅が毎夜10時頃でしたから、ほぼ毎深夜、電話で大喧嘩でした。
 
遂に不動産手数料から100万円引くから契約してくれと言ってきました。
然し、猶も断り続けました。
 
ある夜のこと、夢の中に一度しか見たことがない赤錆た阪急電車水無瀬駅が出てきました。
 
「あゝ、天は私に水無瀬に住めということか」
 
そう感じた私は、100万円は引かず、それを先方の物件所有者にあげ、私との売買契約では私の希望する30万円を引いた額としました。
 
今思えば変な意地を張ったものですね。
 
 
こうして子供たちの夏期休暇中、水無瀬に引っ越し、無論息子は高槻市の小学校から島本町の小学校に転校しました。
 
これは息子にとって四つ目(広島、札幌、高槻→島本)の小学校でした。
私の小学校は三つ(直根、西滝沢、下川大内)でしたが、その上ですね。