人を育てるということとは

 
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   私の履歴書・322
 
引き続きその24歳の彼のこと。
 
札幌の社員や話を聞いた支所の社員は、色々と私に言ってきましたね。
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「きょうも泣いて仕事にならない」とか「どうして辞めさせないのか?」とかですね。
 
その都度言いました。
「君達が入社の時でも、完全な社員ではなかったでしょう」
 
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余談ですが、この当時20代後半の斎木社員(旭川)が20年後の2007年、仙台の支店長に栄転しました。
 
斎木君と二人で居酒屋にて飲んでいるときに彼はぼやきました。
「東北の人間ってレベルが低いですね。あれじゃ、仕事にならない」
 
私は言いました。
「僕が札幌に着任した当時の君達は、どんなものだったかね。
僕が今の君の立場で、君が今の東北の社員だね」
 
「そんなにひどかったですか? 私はそう思っていませんでした」
「それじゃ、その時々を輪切りにして比較して御覧。僕が赴任する直前、君は何を考えどういう動き方をしたのか。そして四年後、僕が札幌を去る時の君と」
 
「当時の水無瀬所長には、厳しく育ててもらいました」
「アハハ!そうだね。君に一番厳しかったはずだ。我ながら厳し過ぎると思った事が何度あったか」
 
「大変でした。特に稚内戦争の時は」 注)この話は後日
「そうだね。その苦しさを体験したから今日の君があるのだよ。然し、僕の口癖はいつも部下に関西弁で『アホかおまえは!』って言っていたけど、皆、生き生きと仕事をしてくれたね。それは何故か分かる?」
 
「分からないです。よく言われていましたが」
「いつもその後の君達に期待していたからだよ。その心が伝わっていたからね。ある意味で、毎月の講習会が北海道での僕の全てを物語っているのかもしれないね」
 
「あれは勉強になりました。今でも戦略の事とかは覚えています」
「支店長の職務の中に人材の育成と言うことも重要なことだね。尚、人を育てると言うことは、実は自分を育てることになっているのだよ」
 
「私にそれが出来るでしょうか」
「やって見ることだね。時間はかかるが低レベルの部下の成長を期待して」
 
「どうやるかは考えます」
「やるなら早いほどいいね。処で、札幌時代に『アホかおまえは!』と言わなかった社員が実はたった一人いたのだよ。誰か分かるかな?」
 
「うぅ~ん、分からないです」
「世子だよ」
 
「世子さんですか。どうして?」
「世子は一度言ったら分かる。あの脳回路は切れる」
 
「そうだったのですか」
「もしも、僕が当時独身だったら、結婚していたかも」
 
「彼氏がいたという話でしたが」
「無論、奪い取るさ!」
 
「処で、例の泣く社員をどうして僕が支えたか分かる?」
「分からなかったです。何故直ぐ首にしないのか不思議でした」
 
「僕が部下社員をどう思っているのか、皆が見ていたのですよ」
 
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話を元に戻しますね。
当時四大卒・24歳・中途採用の泣き虫社員がいて、彼はは時々会社を休むも、それなりに仕事をこなしていました。
 
入社から一年経過後、本社辞令で彼に転勤命令が出ました。
埼玉営業所へ。関東では若い男子の雇用は困難でしたから。
 
 
日曜日の朝8時でした。マンションのピンポンが鳴りました。
こんな早い時間に誰? マンション管理人?
 
日曜の午前というと、私の不足している睡眠時間の補充タイム。
家族全員、未だ布団の中でした。
 
妻が玄関に出ますと、彼の両親です。
10分程、外で待ってもらいました。
大慌てで顔を洗い、妻も大急ぎでパタパタ。
 
リビングのテーブルの方に案内しました。
 
息子の転勤を断り、息子を退職させると言うものです。
これ以上、会社には迷惑をかける訳にはいかないという事です。
 
改めて広島での同じ教員の子息の話をしました。
教員の親は子に1+1=2だけしか教えず。
 
世の中の1+1=3を教えない純粋培養で育てたが故に、子は苦しむと。
子を親の庇護から開放された海の向こうの埼玉に行かせる事が親の責務だと。
 
一般的に子は反抗期を経過することにより、親から精神的に独立する。
その反抗期を体験せずに大人になった子は、いつまで子供のまま。
 
小学校校長の父と教員の母の両親が納得し、彼は埼玉に転勤しました。
その前夜、親子共々、抱き合って泣いたかもしれませんね。
 
彼が千歳空港から羽田空港へ飛び立ったのは、1990年3月27日の事でした。