若き女性の登用
私の履歴書・321
1988年4月、札幌で世子と亜子の女性営業員を雇用してから全国の支店でも若い女性を雇用。
結果、上手くいきませんでしたね。
男の社員と同じ感覚で女性社員を扱ったからでしょうか。
そこでBB営業本部では、主婦のパートタイマーに路線を変更。
営業ではなく、納品立会い業務が主体ですね。
これは、紆余曲折しながらも何とか軌道に乗ったようでした。
1989年3月、社内報の冊子の表紙全面に世子の写真が掲載されました。
本社の担当者が2月世子の写真を本人に要望。
急遽、雪の札幌で撮った写真。真っ赤な制服姿。一躍、スターダムに!
各地の支所長からの嫉妬の電話で五月蝿かったですね。
同年6月、世子(当時24歳)と亜子は本社で開催された全国BB営業部主催全国会議に招待される。二人とも、飛行機搭乗は初めてのこと。千歳空港→伊丹空港へ。
会議の席上、世子が講演を行う。
演壇で30分間。
聴衆は支所長・課長・主任に主婦パートタイマーで計210名。
無論その夜の二人は、吉田本部長に淀橋課長のご案内で、祇園でチントンシャン。
同年夏の終りごろ、世子と札幌クラブハイツのステージでチークダンスを踊っていた時に話す。
「世子、主任になってくれないかな?」
「私に出来るでしょうか」
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「出来る?出来ない?の問題じゃないよ。今後、人を使う立場になった場合の練習と思ったらいいよ」
「どうしてですか?」
「失敗しても成功しても良し。全てが糧になる。次の成功の為に、今の体験がケーススタディーとなるからだよ」
「分かりました。お受け致します」
世子の主任昇進稟議書提出。
異例ずくめで主任に登用。
世子主任の部下は、女子3名(一時4名)に中途採用24歳の男子一名の計4名。
主任のポジションながら、課長と同じ責務を負わせる。
彼女がもてあました社員が、中途採用したこの24歳の男子。
市内の大学を卒業後、ある会社に就職。
その会社と合わないと言う事で1年後退職。
面接したのが私。
薩摩隼人のように眉毛が濃く色黒。
幼稚っぽさは微塵も感じられなかったし、入社してからの教育で一人前に出来ると思いましたね。
処が、仕事の内容を覚えさす為に当初亜子の車に同乗させたのですが、行方不明になると言う。
ようやく見つけた場所では、物陰に隠れて一人で泣いていたそうな。
似たような事態が度々発生。
草食系男子どころではない。
乳離れが出来ていない。
そのうち会社を休み出しました。
夜、彼の自宅に電話をすると母親が出てきました。
「息子は会社務めが無理ですので辞めさせて下さい」
「お母さん、息子さんを今突き放さなかったら、一生、息子さんは一人立ちが出来ませんよ」
実は、父親は札幌市内の小学校の校長先生だったのです。
何とか母親を説得し、翌日から出社することにしました。
広島時代にも同じ様な事が起きたことは、私の履歴書・210で書いていますね。
参考)私の履歴書・210《当時の教員の子の苦労》 ←ここをクリック