私の函館戦争の終結

 
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(函館戦争⑨)
私の函館戦争の終結 
 
いよいよ1989年度4月がスタート。
 
LL社函館の当初の営業員の動きは鈍く心配しましたが下旬からは順調な受注となりました。
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やはり、我等の援軍・奥様方やお子様方の叱咤激励を受けてご主人は奮起したのでしょう。例年のLL社函館と違って新年度分の食品機器の展開は速かったのです。
 
尚、第百事務機(DJ社)は、案の定、前年春に社員3名、冬に2名で5名の増員をしていました。予想通りのコスト増体質になりました。
 
5月下旬、DJ社はLL社からの注文がもう来ないことに気付いたはずです。何しろ二ヶ月間も注文が来ないから気付いて当然。
 
誰かから我等のキャンペーンの話を聞いたはず。
唖然としたでしょう。
 
さて、DJ社はどんな反撃をするのか? DJ社の強烈なコネと称するLL社の誰かが何等かの動きをするはず。
 
私は、LL社函館営業所所長と総務課長・営業課長と面談。
誰もキャンペーンに関しては一言も無かったのです。
当然です。内密事項ですから。 
 
5月末のDJ社の懐具合の想定。
 
4月5月と二ヶ月連続して食品機器の収益を断たれてどうするか? 銀行が更に短期融資に応じてくれるだろうか?
 
毎月必要な現金は、買掛金支払・支払手形決済・長短期借入金返済。それに7名から12名に増えた社員給与。
 
新たな支払いとなった新社屋の建築費と土地代金の借り入れの分割返済分。特に5月には税金の支払いが待っている。
 
参考1)5月に支払う税金
法人税(純利益の30%)・法人住民税(法人税の約20%+均等割)・事業税(純利益の約10%)・消費税(決算期後2月以内)・自動車税
  
参考2)企業が営業やメンテナンス社員一人を雇用した場合のコスト。
給与等支払総額の他に、社会保険の企業負担分が発生。
それに結構かかるのが車に関しての諸費用。
車両代・車検代・保険代・自動車税・ガソリン代・冬季タイヤ代等消耗品。
 
6月の下旬でしょうか。DJ社の事務機器担当のベテラン営業員4名が一気に会社を辞めたという情報が入りました。
 
その後もポロリポロリと社員が辞めていったとの情報です。
更に9月には、新築した事務所は空き家になっているとか。
 
いよいよ山村東京本部長とのお約束の上半期9月末日が到来。この半年間の我等の道南エリアでのシェアは90%を超えていました。
 
10月、本社での会議に出席。
山村東京本部長も同席。
 
顔を見合わせても彼は何も言いませんでしたし、私も何も言いませんでした。お互いに、何事も無かったような素振りをして。無論、山村東京本部長が私に道南を明け渡せと言えるはずはありません。
 
10月中旬、キャンペーン商品の家電商品を各自の指定場所にお届け完了。キャンペーン終了後も、継続して我社の機器は出荷されていきました。
 
明けて1月、LL社札幌支店に新年の挨拶訪問の時に、牧田次長に呼び止められ別室に入りました。
 
「水無瀬所長、この正月休みに函館の息子の部屋に入ったら新品のビデオがあるじゃないか。こんな高いものを息子の給料で買えるはずはない。
 
どうしたのかと問い詰めてようやく話してくれたよ。何と、水無瀬所長の会社から貰ったものだと言うじゃないか」
 
「次長の息子さんがLL社函館に勤務していらっしゃったのですか?」
 
私は、このキャンペーンの件は、お互いの本社同士『公然の秘密』である旨を伝えました。
 
「私の立場上、そういうことでも困る。あのビデオ代金は現金で払うから、一体幾らのものか?」
「確か、定価で30万5千円だったと思いますから、その85%ですね」
 
「それを息子に払うように言っておくよ」
「それは困ります」
 
「どうして?」
「そのお金を受け取ったとして、社内処理での入金名目に困ります」
 
結局、牧田次長のたっての願いでご子息から受け取ることにしました。後日、函館の駒田係長に指示。
 
市販の領収書に会社のゴム印を押して、それに金額を書いて牧田次長の息子さんに渡すこと。但し、ビデオ機器代金は受け取らないこと。
 
その後のDJ社のこと。
次に発行された電話帳にDJ社の名前は無かったそうです。
 
札幌から京都本社に転勤してから間も無く、本社金融部署の責任者が私に質問しました。
 
「水無瀬君が札幌勤務中に函館の事務機屋の社長さんが本社に見えられましたが、どういう関係でしたの?」
「エェ~? それ、DJ社でしょう。それまたどうして?」
 
「山村東京本部長の紹介で融資をしてくれということでしたよ」
「それで融資をしたの?」
 
「とんでもない。我社とは何の取引も無い会社ですから、吉田本社本部長と相談して断りました」
 
DJ社の社長は、太秦社長とも面談したそうですから、万が一、鶴の一声で融資したかもしれない。結構危なかったのです。

然し、山村東京本部長とDJ社ペアーとは直接闘わずして勝利したのは、運にも恵まれました。

他方、戦略を良く理解した駒田君を函館に転勤させなかったら、このような結果は得られなく、道南は山村本部長とDJ社のエリアになっていたことでしょう。

誰も信じられないことでした。
道南エリアでの前年まで5年間の販売台数は各年僅か1台か0台。それが一気に100台以上も販売したのですから。戦略の恐ろしさです。


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