函館戦争 逆転のシナリオは描けず
私の履歴書・308
(函館戦争④)
函館戦争 逆転のシナリオは描けず
札幌着任の1987年春、各地の組合総会が終ってからの6月でしょうか。
道南の日本海側現地視察に車で札幌から出かけました。
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注)2011年現在、このホテルは閉店し、ラブホテルになっている模様。
午後2時頃ホテル着でしたから早く着きすぎ、退屈しました。
翌日も良いお天気。
カメラ持参でしたらもっと違ったでしょうが、貧乏人には風景を撮るためのフイルムを買う余裕はない。
カーステレオでの松田聖子の歌に合わせて歌う。
「あ~ わたしの恋は~ 南の風にのって走るわ~♪」
右手には青い日本海。
日本海沿いの国道229号線を南下。
国道沿いの右側(西側)に商店を発見。
我社製品の7年前の錆び付いた機器が見える。(B点)
更に南下。
何も無い。
更に大分走る。
二軒目の商店を同じく右側で発見。
同じ機種でほぼ同じ状態の我社の機器。(A点)
潮風で土台は腐食している。
余程ここに訪問し機器を販売したかったのですが、グッと堪える。
結構海に近いところだと記憶しています。
ここでもホテルに予約を入れていました。
未だ日が高い。時間充分なので町の観光巡りをしました。
流石「江差追分」の地。
迷わず江差追分会館に入りました。
当時は木造の古い建物。
我が故郷も「本荘追分」で有名ですから何となく愛着がありました。
函館市内も車で駆け巡りました。
ふと気が付きましたね。
幸運なのは、函館のチンチン電車が走るメインストリートが未だ手付かずのまま。
と言っても、函館の佐藤君では打つ手なし。手をこまねいているしか無かったのです。
決算書や社長の人物評など、どれを見ても隙が無いものでした。
以後、聴こえて来るのは第百事務機の快進撃の話だけ。
彼等と争うためには、少なくとも5人の営業マンと3人のメンテナンスマンを投入しなければならない。
月間経費は1千万以上で、年間数千万円の赤字を覚悟しなければならない。他方、着任した当時は「増員してはならない」と厳命されていました。
闘いようがない!
この年の秋、函館に行った時に函館通信機の山田店主と面談。
函館市場の聞き取り調査です。
第百事務機の状況も聞きました。
役員連中の夜の金遣いはどうかと言えば普通のレベル。
新たな情報と言えば、営業マン募集中であること。
事務所が手狭になり、移転したがっていることぐらいです。
何も出来ずにじりじりしながら最初の一年が過ぎました。
そして翌年の1988年3月、函館の佐藤君が母親の死亡を契機に退職。
札幌から駒田君を函館に送り込んで、当に駒を配置出来た訳です。
他方、第百事務機の完勝の雄たけびが聞こえてきた時でもありました。
続く
※私の履歴書・40歳代北海道編 目次