函館戦争 逆転のシナリオは描けず

 
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(函館戦争④)
 函館戦争 逆転のシナリオは描けず

 札幌着任の1987年春、各地の組合総会が終ってからの6月でしょうか。
 
道南の日本海側現地視察に車で札幌から出かけました。
 .
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小樽経由でへ江差の入口の「五厘沢温泉ホテルグリーン(緑館)」へ。
 
注)2011年現在、このホテルは閉店し、ラブホテルになっている模様。
 
午後2時頃ホテル着でしたから早く着きすぎ、退屈しました。
 
翌日も良いお天気。
 
カメラ持参でしたらもっと違ったでしょうが、貧乏人には風景を撮るためのフイルムを買う余裕はない。
 

カーステレオでの松田聖子の歌に合わせて歌う。
「あ~ わたしの恋は~ 南の風にのって走るわ~♪」
右手には青い日本海
 
日本海沿いの国道229号線を南下。
国道沿いの右側(西側)に商店を発見。
我社製品の7年前の錆び付いた機器が見える。(B点)
 
更に南下。
何も無い。
更に大分走る。
 
二軒目の商店を同じく右側で発見。
同じ機種でほぼ同じ状態の我社の機器。(A点)
 
潮風で土台は腐食している。
余程ここに訪問し機器を販売したかったのですが、グッと堪える。
 
江差(えさし)の街に入り、江差商業組合を訪問。
結構海に近いところだと記憶しています。
 
ここでもホテルに予約を入れていました。
未だ日が高い。時間充分なので町の観光巡りをしました。
 
流石「江差追分」の地。
迷わず江差追分会館に入りました。
 
当時は木造の古い建物。
我が故郷も「本荘追分」で有名ですから何となく愛着がありました。
 
江差追分」もいいが、「本荘追分」もいいです。
江差追分」は男性が、「本荘追分」は女性が歌ってこそ!
 
翌朝、江差から函館へ。
函館市内も車で駆け巡りました。
 
瀬棚でも江差でも函館でも一軒の商店にさえ顔を出しませんでした。これが道東の根室管内中標津別海町でしたら、行く都度軒並み片端から訪問するのに。
 
ふと気が付きましたね。
 
函館市内でも子会社の全盛時代に販売した機器が未だ使われている。函館はブルー社の第百事務機(DJ社)にやられていると言っても、ここ1~2年の話。本格的買換え需要はこれから。
 
幸運なのは、函館のチンチン電車が走るメインストリートが未だ手付かずのまま。

と言っても、函館の佐藤君では打つ手なし。手をこまねいているしか無かったのです。
 
札幌に帰り、本社管理部に依頼し、第百事務機の帝国興信所調査のコピーを送ってもらいました。何処かの企業が第百事務機に興信所調査をかけたもののコピーです。
 
決算書や社長の人物評など、どれを見ても隙が無いものでした。
以後、聴こえて来るのは第百事務機の快進撃の話だけ。
 
彼等と争うためには、少なくとも5人の営業マンと3人のメンテナンスマンを投入しなければならない。
 
月間経費は1千万以上で、年間数千万円の赤字を覚悟しなければならない。他方、着任した当時は「増員してはならない」と厳命されていました。
 
闘いようがない!
 
この年の秋、函館に行った時に函館通信機の山田店主と面談。
函館市場の聞き取り調査です。
 
第百事務機の状況も聞きました。
 
役員連中の夜の金遣いはどうかと言えば普通のレベル。
新たな情報と言えば、営業マン募集中であること。
事務所が手狭になり、移転したがっていることぐらいです。
 
何も出来ずにじりじりしながら最初の一年が過ぎました。
そして翌年の1988年3月、函館の佐藤君が母親の死亡を契機に退職。
 
札幌から駒田君を函館に送り込んで、当に駒を配置出来た訳です。
他方、第百事務機の完勝の雄たけびが聞こえてきた時でもありました。
                        続く

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(函館戦争⑤)

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