仕組まれていた私の函館撤退

 
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     私の履歴書・307
     (函館戦争③)
仕組まれていた私の函館撤退
 
今回の記事は、函館戦争の一種のプロローグです。
 
お手数ですが、前回の私の履歴書・306を御覧になってからこの記事をお読み下さい。
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話は、その時の13年前の東京に遡ります。私が東京支店勤務の時です。
1975年、大手事務機器販社の役員だった西條氏が部下を引き連れて独立。
 
従来の機器仕入先のF電機に対抗するS電機に独立した後の取引を依頼。S電機は、S電機と特殊な関係にある我社の山村部長(当時の役職)を紹介。
 
やがて西條氏は新会社「BJ社」を設立。
年商は二年目に20億円。時流に乗り、1983年の年商は200億円。
我社のBJ社への機器卸額は年間70億円。
 
処が、同業者の乱立と機器が市場に行き渡ってしまい業績悪化。
輪をかけて乱脈経理1986年倒産。
 
私が札幌に着任したのは、その翌年1987年1月。
その2月に山村部長は札幌に出張で来られる。
 
私に何故か倒産した元BJ社北海道幹部二名を紹介する。
山村部長が函館を明け渡せと言う一年半前のこと。
 
彼等の販売手法は猟犬法。猟師1人に猟犬が5人。
猟犬が軒並み訪問し、当りの良い客がいたら猟師が登場。
 
契約書に印鑑を貰うまで粘りこむ。
クレーム多発の販売手法。
但し、機器は商売道具故、訪問販売法の対象外。
 
この時の札幌に来た山村部長の意図は何であったのか?
私が窓口となり、彼等に機器を卸し販売して欲しかったのか?
 
彼等は函館の第百事務機(DJ社)と関係があると言っていました。
私、そんな話には一切乗らず。
 
私はそのような話を避ける為に、小料理屋の後に「クラブ ジョニーウオーカー」に連れて行きました。
 
山村部長は御機嫌が悪かった。
クラブで私の膝をポンポン何度も何度も叩く。
私「いい加減にして下さい」と怒りました。
 
それにしても、私、当時は函館の事で頭が痛かったのです。函館に駐在させている佐藤君は、会議や講習会に一度も参加せず。
 
着任した一月の下旬、車で函館に向かう途中、偶然にも初めて彼と会ったのが大雪の降る国道5号線路上

イメージ 1 そこでの彼の話とは、

「冬季、函館から瀬棚(せたな)に行くのに片道6時間以上。
 
雪が降り続いた時は瀬棚から脱け出すことが出来ず。瀬棚の旅館に二泊したこともある」
 
更に
日本海側の瀬棚⇔江差間は陸の孤島になる」
 
処がこのエリアには、その昔、我が子会社の全盛時代に販売した機器がゴロゴロしている。
 
このエリアのメンテナンスだけで手一杯になり、函館市内のメンテに対応不能冬季は「何日経っても修理に来ない!」と苦情の山。
 
この時は、この話を聴いて、絶望しか思い浮かばなかった!
確かに心情的には、このエリアだけ、誰かに代わって欲しかったのです。

私の履歴書・308 函館戦争 逆転のシナリオは描けず
(函館戦争④)

私の履歴書・40歳代北海道編 目次

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