私の函館戦争 これぞ孫子の兵法!

 
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   私の履歴書・306 (函館戦争②)
 
 ※この函館戦争は、「私の履歴書・273」の続編になっています。


初秋、山村東京営業本部長が私に会いたいと言う。
彼の宿泊先は札幌全日空ホテル。
 
会談した場所は忘れましたが、突然酔いが一発で醒めることを言いました。
 
 
「水無瀬所長、函館から手を引いてくれないかね」
「どういう意味ですか? 函館を東京営業本部が担当するのですか?」
 
「いや、そうじゃない。函館の数字を見ると無残なものじゃないか。
それなら、函館で強い第百事務機に函館を任そうと言う事になったのだよ」
 
「ええっ? その話は進んでいるのですか?」
 
「社長並びに役員会での同意は得られているし、第百事務機側との条件交渉に入っているよ」
「いかにも山村本部長が考えそうなことですね」
 
「何が?」
「東京でもそうでしたね。歩合給の事務機屋が好きですからね」
 
「販売力があるからさ」
「第百事務機はライバルのブルー社の特約店ですよ。そこが我社の製品を真剣に販売してくれるでしょうか」
 
「函館を水無瀬所長に任せておくよりも我社製品の台数はさばけるよ」
「分かりました。こうしましょう。私に今から一年間の猶予を下さい」
 
「そんなに悠長なことを」
「来年度の4月1日から9月末日までの半年間で、この道南エリアでの我社のシェアを80%にしましたら、その話はオジャンという事で如何ですか?」
 
「一年間も待つのか」 
「販売エリアを他社に委任するという事は、道内の他のエリアに与える影響を鑑みますと一大事ですよ。一年ぐらい何ですか」
 
更に
「今度の役員会で、他の役員の皆さんにこう説明して下さい。
 
『水無瀬が来年の4月からの半年間、道南エリアでの新台販売シェア80%を達成出来なかったら道南エリアを第百事務機に明け渡し、水無瀬は首』と!」
 
彼は、了解して東京に帰って行きました。
 
この話の途中、「ある戦略を実行中なのでわざと負けているのですよ」と言いかけましたが、昔の事をはっと思い出して話すのを止めました。
 
迂闊(うかつ)な事は言えない。 
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然し、山村東京営業本部長の言いたいことも分かる。
 
道南エリア(函館エリア)とは、函館・八雲・江差の三つの商業組合が対象。
 
道南エリアでのマーケットサイズ(市場規模)は、年間2億円の200台。
 
 このエリアでの私が赴任して来た1987年の我社の年間販売台数は僅か1台。
 
翌年の1988年3月函館の佐藤君が退職し、札幌から駒田係長を着任さす。
 
更に旭川から、吉田社員を函館に移動。
函館で採用した20歳の女性営業員が1名。
 
1988年度想定シェア
● ブルー社代理店第百事務機 120台 シェア60% 兵力数7名→12名
● ブラウン社函館営業所    70台 シェア35% 兵力数10名
● 我社函館出張所       10台 シェア5%  兵力数1名→3名
 
尚、第百事務機のこの市場に本格参入したのは、私が着任する前年の1976年から。
 
この数字ですからね。
然も、我社の販売先はホテル・旅館・会館などで、商店に実績はない。
 
当然ですね。
これが私と駒田君と二人だけの秘密の戦略ですから。
 
『第百事務機に道南市場を制覇させ、我社は完全敗北すること』
 
この状況でこれが罠(わな)だと気付く人は当時誰もいなかったでしょう。
もしも気付くとしたら「三国志」の諸葛孔明でしょうか。
 
孫子の兵法」の現代実践版。
但し、我等の兵力数は3名のままで。(駒田君、女子営業員1、男子営業員1)
 
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尚、私がその後本社に転勤し、毎月全国の各エリア会議に出席。
エリア毎の出席者は支所長・課長・主任で、20名から50名ですね。
 
『戦略』をテーマに2時間講演した際に、この函館戦争の話もしました。
 
特に名古屋支店会議室で行われた東海・北陸エリア会議では、役員の野水支店長が当時の役員会での様子を話し、私の話しに裏づけをしてくれました。
 
故に、全員、午後の眠気など吹っ飛びましたね。。。
 
受講者達は、5年10年経っても私と会うとこの函館戦争の話をしてきましたから、その反響の大きさは推量できますね。
 
                    続く
 
私の履歴書・307 仕組まれていた私の函館撤退  
(函館戦争③)