勝負手だった両名の辞表

 
 
 
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     私の履歴書・280
 
 
魚住社員が興奮して帰ってきました。
 
「すすきの交差点がやられました!」
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すすきの交差点とは北海道の最高の場所で札幌のシンボルの一つ。
 
東京で言えば三越と和光がある銀座四丁目交差点のようなもの。
 
それから間も無く 「駅前通りもやられました!」
 
札幌駅→すすきの交差点→中島公園への駅前通は、札幌のメインストリート。
 
「あ、そう」 と私。
「所長は悔しくないのですか?」
 
「別に。あの場所の確保は、本州の幹部に対してのゼスチャーの為ですよ」
「でも宣伝効果には抜群の場所でしょう!」
 
「じゃ、我社の子会社が札幌で一番でしたか?」
「なんと言ってもそれはブラウン社です」
 
「と言うことは、ここ十年、すすきの交差点を自社の顧客として死守してきた意味は何なの?」
「分かりません」
 
「自己満足ですね。何故札幌エリア全体で勝とうとしないのか」
と言ってみたものの、勝てるシナリオを描けない。
 
 
 
札幌商業組合の理事長が神戸部長経由でアプローチしてきました。
着任当初は私がアプローチし、理事長・副理事長と四畳半で一献。
 
今度はむこうからのアプローチ。
再度四畳半で一献。
 
ブラウン社は札幌で販売した一台につき、五千円を組合に払っている。
我社に対しても、同条件を要求。
 
でも、何となくすっきりしない。
検討をしておきましょうと言って別れる。
 
ところが、その料飲食の払いは何故か我社で。
筋が違う。
 
札幌以外の商業組合とは手を結ぶ戦略。
だが、札幌組合は別。
 
道内23箇所の組合事務所を訪問するも、女性事務員の応対は様々。
愛想の良い人、冷たい人、敵愾心に満ちた眼差しの人等色々。
 
でも、札幌組合の応対だけは異なる。
二人の女性事務員共に私を見下した視線と応対。
 
特に年長の方がひどかった。お茶も出てこない。
恐らく、日頃、理事長が我社の事を卑下しているから、その反映でしょう。
 
あれでは、我社がブラウン社と同条件を呑んだとしても、組合が我社を推すことにはならないだろう。
 
ブラウン社と同じ戦略では、いつまで経っても負け犬!
かと言って、未だ勝てる道は見出せない。
 
 
 
ひたすら、ひたすら部下の戦闘的思考回路を育成するしか途は無かったですね。
毎日朝礼の私の話す15分と、二ヶ月に一度の温泉宿泊一泊セミナーですね。
 
特に、毎朝が勝負でした。今日の話で、彼等はどう感じたのか。
消灯した布団の中で、部下たちの顔を思い浮かべながら、明日何を話そうか。
 
 
 
着任した年の4月早々、坂上課長が辞表を提出。
彼は、子会社時代のメンテナンス部門の幹部。
 
彼等の誇りだったすすきの交差点を失い、更に札幌商業組合とも物別れ。
札幌エリアにこれぞと言う手を打たない私。敗戦が続く毎日。
 
「母親が病気で函館転勤が不可能になりました。だから転勤命令に従えませんから会社を辞めます」
 
彼はこれまで「函館に転勤させて欲しい」と幾度も要請してきました。
私はその都度「そうか、考えておこう」と回答。
 
こちらから転勤の要請など、一度もしたことは無い。
私の知っている事と言えば、彼の妻の実家が函館。
 
辞表を受理。
即座に本社に報告。
 
彼の勝負手だったのでしょうね。
本社から矢継ぎ早に電話が来ました。
 
ストライキになるのかい?」
「社員が全員辞めたらどうする?」
 
社長室からも電話。「報告をして下さい」とのこと。
「何を報告するのですか? 知りたい事があれば本人に聞いたらどうですか?」
 
4月22日、彼の送別会。
25日付けで会社を去りました。
 
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赴任して落ち着いた頃の10月1日に、転勤命令を発しました。
 
札幌・山川課長→旭川営業所長
旭川・塚本所長→北見所長
北見・駒田所長→札幌営業所係長
 
処が、山川課長が転勤拒否。
彼はかっての血判状の張本人。
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彼は、札幌と旭川の中間に住んでいますから旭川にも通えるはず。
それにトラクターのような大きなタイヤの四輪駆動車を購入していましたからね。
 
「家族で転居は出来ませんし、自宅からは雪で通勤は不可能です」
「大雪の場合は、旭川のビジネスホテルに泊まったらよい」
「親の面倒を看なきゃならんですから、家を離れることは出来ません」
 
坂上課長と同じ理由『親の面倒』でしたね。
そう言って彼は辞表を提出。
 
よく見るとニヶ月先に会社を辞めるという内容です。
ニヶ月なんて前代未聞。
 
これも彼の勝負手ですね。
このニヶ月の間に、彼を擁護する太秦社長の声が発せられるはず。
 
鶴の一声で、必ずや所長の私を北海道から追い出すことが出来ると。
恐らく、昔使った手でしょうね。
 
またまた本社から電話。
関西人はもめごとを嫌い、折衷説を採りたがりますからね。
 
都度答えました。
ストライキ血判状などは今後永久にありえない!」
 
転勤命令通り、塚本君は北見へ。
駒田君は札幌にきました。
 
時間が黙って推移しましたね。
それからニヵ月後の12月.、彼は会社を去りました。