中標津のあの素敵なご婦人は今?

 
 
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    私の履歴書274
 
 
依然と1987年のことです。
 
4月1日付けで神戸氏の後継者要員として、LL社を定年退職した唐崎氏(仮称)が入社。
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一年後に、神戸部長の我社勤務任期満了ですから交替要員ですね。
 
 
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唐崎部長の得意なエリアは、根室管内
 
ここは、根室市の他に、
   羅臼(らうす)・
   標津(しべつ)・
   中標津(なかしべつ)・
   別海(べっかい)の各町です。
 
 
5月16日(土曜日)
根室商業組合の松谷事務長の招待で、通常総会に出かけました。
我等のメンバーは、神戸(63歳)、唐崎(60歳)と私(42歳)の三名。
 
当時の交通手段)
自宅(タクシー)→札幌駅(国鉄)→千歳空港(東亜21便)→女満別空港(リムジンバス)→網走駅(国鉄)→川湯駅(バス)→川湯プラザ前
 
 
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一泊二日ですね。道南の八雲組合の『洞爺サンプラザ』と同じ形。
 
松谷さんは「総会中はゆっくりと温泉に入っていた方が良い」とのお奨め。
「総会に出てもつまらんから」と言って。
 
 
川湯温泉には、四年間で8度泊まりました。
同じ川湯温泉のホテルでも、泉質はここ川湯プラザが一番でしたね。
 
宴会(懇親会)は、畳の大広間でのお膳形式。
出席した組合員は78人。ここも七割が中年以上のおばちゃま。
 
招待客は、各町役場の代表者にLL社根室所長に我等の三人。
業者としては、ここでも我等が初めての参加。
無論、ライバル会社はいません。
 
八雲の時と同様、我等三人が三方に別れてお酌をして周りました。
でも、一人では、半数の37~38人弱が限度でしたね。
 
途中、唐崎部長が私を呼びに来ました。
私をご指名のようで、中標津・別海の女性グループの席へ。
そこで、そのグループの女性の皆さんとさしつさされつ。
 
 
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カラオケが始まりました。
何人目かの時、松谷さんは私を指名。
 
私の歌える曲って当時は
の二曲しかないですね。
 
ちょいと音痴気味に歌う私。

 
歌い終ったら、その中標津・別海グループから大喝采
 
 
事務局の松谷さんが 「何故水無瀬所長だけ拍手が多いのだ?」って。
 
 
ビンゴゲームの後の二次会は全く記憶に無いですね。
ここ根室管内では、変な噂を立てるわけにいきませんから自重していたから?
 
私、ムードに弱いですからね。
 
実は、八雲総会(洞爺サンパレス)でのくだんの女性とチークダンスの最中のこと。
私より五歳は年長の女性でしょうか。
 
踊りながら彼女に言いました。
「素敵な瞳ですね。ご主人が羨ましい」
だって、潤んだ黒い瞳で見上げられましたら、言わずにおられないですからね。
 
思わず、彼女の腰に回している手でぎゅっと抱きしめました。
見つめ合いながら踊っている時に、突然、彼女の全身が熱くなりました。
 
彼女の吐息も熱く。
彼女の吐息は、桃の花の甘い香りに。
 
私は、そっと唇を近づけました。
彼女は、静かに顔をそむけました。
 
何しろ、お立ち台のような壇上でのことですからね。
我等二人を見上げていた彼女の仲間達からは盛んな笑いと冷やかしの言葉。
 
 
でも、ここ根室組合では、このような噂を立てる訳にはいきません。
ここも四年間四度の組合通常総会懇親会に出席しましたが、毎回おとなしく。
 
 
最初の懇親会以降、中標津・別海のご婦人の皆さんは、毎年、私のファンと公言していました。昔懐かしい言葉でした。
 
中でも、中標津の街中から一本南の釧標国道沿いの女性とは懇意になりました。
当初、川湯サンプラザで出会った時の彼女は50歳前後でしょうか。
 
色白でちょっとふっくらとした、いかにも心優しい女性っていう感じでしたね。
 
以後、札幌から関西に帰ってきてからの十年間、中標津から宅配便が来ました。
毎年5月の総会の頃、自宅に届くのです。
 
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彼女(森田商店)から贈られてくるものは、例えば『イカの燻製』とか『干しこまい(氷下魚)』とか。
 
 
一袋の容量は半端じゃない。
 
A4の透明な袋がはちきれんばかり。
それが一度に五袋程。
 
 
特に、標津(しべつ)のコマイは格別に美味しいですからね。
そのこまいをたしなみながら、彼女を思い出して熱燗を飲む美味しさよ。
 

 
 
付記) 
 
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