仕事の出来る人は決断力が違います
私の履歴書・266
北海道・伊藤忠会 1987年~1990年
赴任の1987年の場所は札幌グランドホテル、
2Fグランドホール。(札幌駅前通り)
招待客は250名程だったと思います。
パーテーでは、25個の円卓。
一つの円卓に10人前後が着席。
披露宴と同じスタイルですね。
私の指定された席は、UCC上島コーヒーの方の隣でした。
伊藤忠商事㈱我社担当の吉田係長の手配でしょうね。
伊藤忠商事の年商規模の拡大の為です。
私はその14年前から、UCC神戸本社(木造)を度々訪問。
本社の役員や部課長の皆さんとは、面識が有ったのです。
処が、ここUCC北海道支社の方には話が全く通じません。
それもそのはず。地元の焙煎業者がUCCに吸収されて間もない頃。
だから、吸収された焙煎業者は、吸収したUCCの事を知らなかったのですね。
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そこでビール園の百景園(札幌市豊平区平岸1条18丁目)を買収。
この時は、買収してから間もない頃でしたね。
百景園は、私の会社が環状通りですから、結構利用していました。
夜久さんにはこの時、百景園に関して二つの事を提案しました。
一つは、焼肉のタレが酸っぱ過ぎるから、甘いタレに。
柑橘類の酢酸と違って、酢を嫌いな人の方が遙かに多いはず。
基本的には甘いタレにし、酸いタレのボトルを別に置いていたら良いと。
二つ目は、ジンギスカン会場の真ん中の舞台は撤去すべき。
顧客の目的は、観劇ではなく、食べて飲んでお喋りにある。
舞台での歌や踊りは誰も見ていない。
舞台出演者に払う出演料は、価値の無いコスト。
他方、視界を妨げるものとなっており、全体の雰囲気を損ねる。
拠って、舞台は撤去すべきである。
それから10日後ですね。アサヒビール百景園に社員達と行きましたら、もう既に舞台は無くなり、タレの酸味もぐっと押えられていましたね。
流石! 出来る人はやることが早い!
事務所も夜久さんの机も、私のところと似たようなものでしたね。
工場の一角にある木造事務所は、床に油を引くもの。普通の両袖事務机。
夜久さんは、人格者でしたね。それに腰の低く威張らない人でした。
その後、夜久さんとは五度ほどお会いしました。
二年弱後、夜久さんは本体のアサヒビール副社長として本社に帰りました。
私 「夜久社長につないで下さい」
受付嬢 「そんな人は会社におりません」
私 「社長室に回して下さい」
私 「北海道アサヒビール社長の夜久さんは、社長になられたのでは?」
社長室(?)の人 「夜久という名前の人は、いないですよ」
確かに社長ではなく、副社長ですから、社長でそういう人はいないはず。
でも、受付嬢と社長室の方は、着任したばかりと言えども、夜久副社長の名前ぐらいは直ぐに覚えておいて欲しかったですね。珍しい名前ですけど。
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1989年、この年は立食パーテーでしたね。
場所は、パークホテル。(札幌、中島公園)
初めて伊藤忠商事㈱ 米倉 功 社長(当時67歳)が札幌に来ました。
随行した5人の専務達の動きを見ていますと、社長の小間使いもどきでした。
各専務と担当者が、道内有力取引先を連れて来て、米倉社長と名刺交換。
各専務が交互に次から次へとですから、並んで順番待ちをしています。
どの専務も、私に声をかけてくれる気配無し。
それならばとチャンスを窺がいました。
一瞬列が消えたので、一人で雛壇の米倉社長の許に歩み、名刺交換。
我社の企業説明をしてから四方山話を5分間程。
最後に私、「札幌営業所の年商は、ようやく20億円弱。伊藤忠さんに貢献できる域まで達するには、もう少し時間がかかりますよ」
米倉社長「利益は出しているかい?」
私 「億単位の純利益ではないですが、出しています」
米倉社長「水無瀬君、企業は売上ではなく利益だよ。利益が全てだよ」
後ろを振り返ると、順番待ちが5組。専務の皆さん、「あいつは何者だ! けしからん!」と言って怒ったでしょうね。
それから十年後、用事があって伊藤忠本社に電話をした時です。
ついでに電話を秘書課(?)に回してもらい、米倉社長の消息を尋ねました。
この時の米倉さんは、伊藤忠商事会長を辞任した後ですね。
私 「如何でしたか? 米倉さんの時代は?」
彼 「社内では米倉天皇と呼ばれていました」
私 「それはそれは! 周りの気遣いは大変だったでしょう」
彼 「我がままっ子で、大変でした」
お互いに、大笑いしましたね。
今頃、クシャミをしている御仁がいらっしゃるかも。
四年目の時には、鉄人・衣笠(元広島カープ)の講演が有りました。
この時の話は私の履歴書No.86「京都のたこ焼屋の増井のばあちゃん!」で述べています。