嫌われた関西弁対策

 
 
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   私の履歴書264
 
札幌着任で困ったのは言葉。
 
当時、全国的に関西弁は嫌われていましたね。
今とは大違い。
 
 
 
ランチェスター戦略の青木氏によれば、北海道人は、関西人を毛嫌いしているとのこと。京都人を除いて。
 
特に、北海道で嫌われる原因は昆布にあると言う。
 
大阪商人は、口八丁手八丁で北海道人を騙して叩き値で昆布を買う。
それにダシ味をつけて塩昆布(シオコブ)として高く売るからとの事。
 
 
その例では、北海道三年目、帯広のスナックでの出来事。
帯広商業組合の佐藤さんと飲んでいて、うっかり関西弁で応答。
 
その時、シンデレラがお帰りの時刻をとうに回っていました。
いきなり酔客が殴りかかってきたのです。
 
「関西弁をペラペラ喋りやがって!」と言って。
これが実態でしたね。
 
 
私の育ちは秋田県由利郡秋田県の南部の海沿い)。
故に、本来はズーズー弁
 
処が、中学の一年から三年間、東京から転校してきた子と友達。
この中学時代は標準語になりました。
 
大学入学で京都へ。
ここで京都弁を真似て言葉のニュアンスが微妙に変わりましたね。
 
更に、二十代前半、色々な県出身の人と付き合い、言葉がごちゃまぜ。
 
特筆は熊本県人吉市出身の連中九人と熊本市出身が二人。
三年半、毎日誰かの人吉弁を聞いていました。
 
「なかとよ」(無いですよ)、「よか」(良い)、「ぬしゃ」(お前は)
「~ばい」(~だよ) 、「~たい」(~だよ)
 
「よかたい」や「あかんばい!」は私の常用語になっていましたね。
 
そして三十代と四十代初めで合算して広島に六年程。
「しんさい」等の広島弁も身に付いている!
 
関西にいると「にいさんは関東の人か?」と言われる。
東京に転勤すると「あなたは関西の人?」と言われる。
 
関西以外では全ての地域で「関西の人?」
特に関東以北では、人吉弁でも広島弁でも、全て関西弁と看做される。
 
札幌では標準語で話さなきゃならない。
だが、しっかりと身に染まった節回し等は直るはずはない。
 
こうなったら、いかに私の祖先が北海道と縁があるかを話して歩かなきゃ。
名刺交換後の会社説明の前に、先ず自分のルーツの話をしましたね。
 
       ☆       ☆       ☆
 
祖先は平家で羽後の国(秋田県南部の沿岸)に逃亡。
子吉川の河口・石脇三軒町に住み着く。(時代不明。現在由利本荘市石脇)
 
お寺の過去帳に基づく明治時代に作成された戸籍によると、室町時代と江戸時代の境目あたりに記入されている名前は『平八』。 
 
江戸時代中頃から、代々『○○藤八郎』と名乗る。
 
越前敦賀で瓦焼きの修業を積み、瓦師として地元石脇で創業。
当初は能登輪島から粘土を積み地元の石脇港へ。
 
 その粘土で瓦を焼き、亀田藩や本荘藩・由利地方で販売。
空船で輪島に行くのは危ないので、現地の米や物産を積んで輪島に。
 
当初はこの往復。
 
やがて能登半島から更に足を伸ばし、日本海沿いを南下。
下関を回り瀬戸内海を渡航し大阪へ。
 
『○○藤八郎』は数代続き、途中、『○○菊五郎』の名前の時も。
もう一人、歌舞伎役者の名前の時がありましたが、その名前は忘れました。
 
追記)もう一人の名前は歌舞伎役者ではなく、歌舞伎・浄瑠璃の主人公でした。
『忠右衛星門』という名前で、『黒船忠右衛星門もの』と総称され、数多くの作品が上演されました。
 
 
再び藤八郎に戻るも、次は『○○吉太郎』。
吉太郎の四男・曾お爺さんの名前は再度『○○菊五郎』。
 
私の祖先は大阪でいかに歌舞伎に狂ったか!
 
注1)『藤八郎』の八の半分は四。それが半四郎。
    参考)歌舞伎役者 坂田藤十郎岩井半四郎
 
注2)『菊五郎』の由来は、歌舞伎役者『尾上菊五郎』から。
 
注3)『吉太郎』の由来は、歌舞伎役者『小川吉太郎』から。
初代(1737~1781)、三代目(1785~1851) 何れもやつしがたを得意とする。
 
 
そして幕末からいよいよ明治時代。
この新しい時代、所属する亀田藩消滅で藩の御用船としての特権喪失。
 
この時代、大阪から無事に帰ってこられたら、三日三晩どんちゃん騒ぎ。
他方、海賊に襲われたり、嵐で転覆したら、米びつは空。
 
 
イメージ 1 1884年明治17年)6月4日、石脇町で260戸が焼ける大火で奈落の底に。
 
この大火で我が祖先の廻船問屋&瓦屋○○は、50棟あった蔵の内、49棟を失います。
 
つまり財産の大半を焼失。
 
分家の全ては「釜けした!」(飯を炊く釜戸を壊す? 釜戸の火が消える?)と称して夜逃げします。
 
行き先は「まつめぇ」(道南松前
 
この時代、夜逃げは漁船で。
行き先はほとんど松前だったらしい。
 
だから、私と同じ血を引く人が北海道には沢山いるはず。
札幌にも、登別にもいました。
 
本家である私の曾御祖父菊五郎は、廻船問屋を廃業し質屋に転業。
明治22年隠居し、私の祖父『○○鉄之助』に家督を相続します。
石脇の大火から5年後のことでした。
 
明治36年祖父鉄之助は淵名孫三郎の長女ユウと結婚。
明治44年父が生れます。
 
父が幼少の頃、周囲からは「石脇のボンボン」と言われて育ったと言う。
その頃でも、子吉川沿いにうちの焼け残った一戸の蔵があったそうです。
 
今は、その面影さえもない。
落ちぶれたもの。 
 
       ☆       ☆       ☆
 
こう言いながら、全道を回りましたね。
お陰様で、私の発する関西弁でも、好意を持って聞いてくれましたね。
 
 
 
余談ですが)
 
イメージ 3実は、元本荘市長の佐藤憲一氏(故人)が我家のルーツを調べたのです。
 
当時取り寄せた我が祖先の戸籍には、上記で話した室町時代からの名前がずらりと記入されていたのです。
 
それが人権問題で国民全部の戸籍が書き換えられたとか。
非人・罪人・里子等が戸籍に記載されているとかで。
 
だから、今の新しい戸籍は江戸時代以前の分はカットされています。
 
但し、古い戸籍は法務省に保管されており、手続きで写しをもらえるようです。
 
更に佐藤氏は、我が家の祖先の瓦屋・廻船問屋時代も調べたのです。
 この記事は、1990年頃秋田魁(地元新聞)に一面で掲載されました。
 
残念にも、昔の戸籍とこの新聞の記事は、母が亡くなってからも暫らくは有ったのですが、いつの間にか空き家から無くなっていました。 残念です。
 
 
上の戸籍は、二年前(2008年)由利本荘市役所で入手したもの。
私のお祖父さん『鉄之助』の戸籍です。
曾お爺さんの名前『菊五郎』が読み取れるでしょう。
 
更に、お祖父さんの名前 『鉄之助』 も歌舞伎役者の名前です。
 
参考)沢村 鉄之助  寛政5年(1793)子役として初舞台。2代目沢村田之助を襲名。
色子から若女形。美貌の持ち主であったという。30歳の若さで死亡。