会社の赤字を防ぐには妻に頼むしかなかった!

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1985年4月1日、それまで営業係長だった私は、突然、新設した広島のメンテナンス会社の常務取締役に。
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常勤者は、私と部下四名の計5人。
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と言っても、その内の二名を元の会社に返さなければならない。
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私の責務とは、5年後、200名の社員とそれに資する仕事の確保。
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その為には、何をどうするか?


私の履歴書・207

1985年初夏
顧客の商店主から聞いてきたと言って、沢木君が面接に来ました。
西区でプロパンガス・ボンベの配達をしているそうです。

背は小さくても力持ち。それが災いして腰痛。
既にその会社を辞めることを申し出ているそうです。

どうやら、真面目に仕事に励んでいる様子。この時23歳。
仕事は、黙々とするタイプですね。彼が、採用第三号となりました。


社員の新規雇用は、経費上、彼等の三人(村主・松川・沢木)で限度でした。
試用期間は三ヶ月。即ち、四ヵ月後から三人分の給料・諸手当・社会保険が固定費に。

従来の社員四人(相場・赤城・篠原・田辺)に、それまで以上に頑張ってもらいました。
が、限度があります。

私も今日の利益を稼ぐ為に、空いた日に商店を訪問し物販。即決。
でも、私がそれを出来るのは、月に2~3日のみ。

新人三人は、仕事を覚えるだけで精一杯。
戦力には未だならない。困りましたね。月次決算は、赤字。

私の周りの動ける戦力はと言えば、残るは妻しかいませんでした。
妻に頼みました。商店を訪問し、見込み客を探して欲しいと。

下の子は幼稚園年長組。上の子は小学校。
雨の降らない日、子供二人を送り出し、家事を済ませてからですね。

ママチャリの前の籠にカタログの入った幾つかの封筒を乗せて。
当初は、翠町→仁保新町→(国道を渡って)→東雲→段原南のコースでした。

商店のご主人や奥様方にとって、男社員の訪問とは勝手が違ったでしょう。
訪問するのは家庭の主婦ですから、井戸端会議的になったのでしょうか。

広島の商店の皆さん、応援してくれましたね。
欲しいという見込み客を妻は結構拾って来たのです。

換言すると、太秦電機㈱広島営業所の営業マンは営業力が無いと言うことですね。
有り難いこと。妻が拾ってきた見込み客の顛末を、部下の田辺君に伝えるのです。

田辺君が訪問し契約。
単価30万円~50万円でしたからかなりの利益と、それに現金でしたから資金繰りに助かりました。

他方、
この頃、全国の小企業業界では、業績を上げるための家電の販売が流行。
これに力を入れたのが、シャープとダイキン工業でした。

両社共に小企業に「鬼の販売部隊」と称する家電販売部隊を編成させました。
従来の家電店や量販店ルートではない新しい販売ルート創りですね。

例えば、社員5名の工務店の場合は、シャープから指導員が張り付きます。
社員は販売目標を宣言。家電カタログ片手に縁故・知人・取引先へ。

関西メンテナンス太秦㈱は、この家電販売で結構な数字をあげ、毎月の戦果を役員会で報告。
以後、全メンテナンス会社で、それいけドンドンとなったようです。

我社の場合、人員的余裕は無い。全員メイチでしたから。
それに、毎日のメンテナンスや納品業務がスポットで入りますから、朝から家電に徹する事は出来ません。

太秦電機㈱広島営業所の連中にも家電の販売を助けてもらいました。
無論、部下達は、業務が終ってからの夜、知人宅のドアを叩きました。

それでも期待する数字には程遠い。
これも妻にお願いしました。

妻は、我等と違って、子供の関係で顔が広いですからね。それに広島在住は二度目ですから。
記憶にある妻の販売先は、クマヒラ金庫関係とか、五階建て県教委翠町公社でした。

所詮家電。一軒数千円からせいぜい数万円。
額は知れていますが、足しにはなりました。


さてさて、
毎月初に行われるメンテナンスグループ6社役員会では、グループの総帥太秦社長の私への言動は月毎に熱を帯びていきました。

三ヶ月目程から、40分前後で済んでいた役員会が、3~4時間になりました。
延長した時間の大半は、太秦社長の私へのサジェスチョンと叱責です。

関東メンテナンスの宮下社長からは、毎回終了後クレーム。
「水無瀬常務さんよ、役員会で太秦社長を興奮させる事は言いなさんな!」

恐らく、太秦社長は、表面では私を叱責していますが、実は、他の会社の役員連中に聞かせたいからでしょう。
関東・関西両社長共に、太秦社長よりかなり年長ですから。


注)記事中の人名と社名は一部を除いて全て仮称です。