非公開・国指定名勝「対龍山荘」の思い出

ほっこり京都人(19)
非公開・国指定名勝「対龍山荘」の思い出

40年前着物姿で格子戸を開けてくれた女性を探すために、当時を思い起こしました。格子戸と庭に大きな池のある家と言いますと、「市田対龍(たいりゅう)山荘」しか思い出せない!

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注)對龍山荘、対竜山荘とも書く。

その場所が何処だったのかも思い出せませんでしたが、ようやく地図で発見。苦労しました。早速どうなっているのか、市田(株)本社へメールをしました。

下記は、市田(株)からの返信です。
市田(株)と言いますと、京呉服・和装でご存知の方が多いでしょうね。

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Subject Re: お客様窓口【 ichida.co.jp 】
Date Tue, 4 Jan 2005 13:22:12 +0900

このたびは当社に関心をお寄せいただきありがとうございます。

さて、お問い合わせの件「40年前に京都にあった「市田対竜山荘」は、今、どうなっているのですか?」についてお答えいたします。

市田対龍山荘は当社創業者の市田弥一郎により明治35年頃に別邸として建てられたもので、建物は島田藤吉、庭は小川治兵衛(植治)により作庭され、その優美さから国の名勝にも指定されております。

明治以来、約100年間にわたり当社が所有して参りましたが、残念ながら、昨今の企業環境から平成13年に他社に売却を致しました。

現所有者も対龍山荘を非公開としておりますので売却先を申し上げるわけには参りませんが、お問い合わせの件につきましては、現在は市田株式会社の所有物件ではないことだけをお伝えいたします。

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市田株式会社 経営企画室
〒103-8558 東京都中央区日本橋浜町1-12-9
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對龍山荘の場所の地図です。
(住所)京都府京都市左京区南禅寺福地町22
http://www.mapion.co.jp/m2/35.01076199,135.7896288,19

拡大した地図です。
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(行き方)
南禅寺前交差点から南禅寺参道を南禅寺に向かって歩きますと、右側が旅館八千代館。
その東端に路地があり、そこには『旅館菊水』の看板があります。
その路地を上がって行くと、左側に「對龍山荘」の大きな門があります。

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「對龍山荘」の正面入り口です。40年振りでした。2006.09.18

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(画像では、路地左側が旅館菊水、右が對龍山荘)

中の庭には池があり、縁側は釣殿のようになっていた記憶。
奥に茶室がありましたね。
借景が南禅寺の裏山の東山。

旅館菊水のご主人に「對龍山荘」の事を聞きましたが、「東京のハイテクの会社が買い取って、今は留守番の小母さんがいるのみ」だそうです。

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この塀は、南禅寺参道沿いです。一般の人は、全く気が付かないでしょう。
国の名勝指定ですが一般公開されていませんからね。

何故に、市田の事を書いたかと申しますと、格子戸の女性の件の他に、京男について書こうと思うからです。当時、室町・市田に勤務していた10~20歳年上の京男数名が知人でした。彼等、室町の京男には、共通した独特の後ろ指の手法がありましたからね。

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尚、着物姿の女性が格子戸を開けてくれた場所は私の記憶違いで、對龍山荘ではなく、堀川の裏千家本家と思いまして、メールしてみました。が、お愛想なしの回答でした。

それもそうですね。当時、裏千家の格子戸を開けてくれたのが着物姿の若い女性なのですが。格子戸をくぐって短い庭を通って玄関から上ります。

左にぐるっと回った渡り廊下の先は、裏千家のお母さんの離れ。大きな池は無かったですからね。お母さんは、座敷机に座りながら、いつも書き物をしていました。

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Fri, 16 Mar 2007 10:02:33 +0900

メールを拝見しました。
お尋ねの意味が当方では判りかねます。
そのようなことで、ご質問にはお答えしかねますことを
ご了承ください。

(社)茶道裏千家淡交会総本部
 602-8688 京都市上京区堀川寺之内上ル

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追記)2011.11.01 對龍山荘

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私が何度かここを訪れたのは、私が22歳前後の頃。(1967年・昭和42年頃)

(説明1)明治時代後期、この山荘を建てたのは、東京の棟梁・島田藤吉です。数寄屋建築で、部屋に居ながらにしてガラス張りの窓の外に広がる見事な庭を楽しむことができます。この眺めは、軒先に支柱がないことによって成立しています。

(説明2)庭は池泉回遊式で東山の瑞龍山を借景にしています。この山荘が「對龍山荘」と名づけられたのは、瑞龍山に向かい合った山荘という意味からきています。栂(とが)の良材でできた屋内。欄間は菊桐文様です。これは大正4年に天皇が宿泊した際につくられたものだそうです。

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この對龍台(二階が池に突き出た部屋)からの風景は特によく覚えています。少なくとも三度は行きましたから。50歳前後の和服がよく似合う女将さんに案内されて、この對龍台で庭を眺めたものです。

尚、この当時の(昭和40年代前半)ある一時期、ここで昼会席が出来たのです。
一人前が確か1800円(1900円?)だったと記憶しています。

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對龍台には秘密があります。
池の向こうに見える滝の音を、この対龍台の床下の渓流で奏でるものです。

文豪・谷崎潤一郎も愛した對龍山荘ですね。

追記)2012.10.29

2010年11月、株式会社ニトリホールディングスが保有
注)ニトリ(似鳥)の発祥は札幌。

尚、下記 對龍山荘の説明の一部は、下記「しゅんでる!」氏のブログから書き写しました。
http://shun.dtiblog.com/blog-entry-315.html

追記)2017.04.07

今日のこの記事へ、對龍山荘で私がお会いした女将さんは、市田ヤエさんではなかろうかという非公開のコメントがありましたので、更に思い出したことを付記します。

私が市田對龍山荘に行ったきっかけは、私の21歳年上の友人(当時43歳)が、実は、かって市田に勤務しており、彼は、超やり手で、当時としては30歳弱で営業課長に登用されるなど、異例の出世をしていくのです。処が、彼の上司が事件を起こします。部下である彼はトカゲのしっぽ切りで責任を取らされ市田を辞めます。

この辺の事情を市田對龍山荘の女将市田ヤエさんは知っていました。だから結構気兼ねなく市田對龍山荘には行けましたし、女将さんはいつも我らに付きっきりだった訳です。

非公開のコメントは以下の通りです。
「昭和42年頃、50歳前後の女性で對龍山荘というと、ひょっとしたら、市田ヤエさんの可能性もあるのかな?と思います。ヤエさんは、一時いつの頃かはわかりませんが、2階の丸窓のある部屋におられて、そのお部屋はヤエの間と呼ばれていました。

ヤエさんは、オムロンの会長(立石義雄氏)の奥様(会美子夫人)のお母様ですね。市田弥一郎の孫にあたります。」

その女将さんが、あなたの仰るとおり、市田ヤエさん(詩人)で、オムロン(立石電機)の会長の奥様のお母様だとすると、人のつながりに改めて驚かされます。

全く同じ時期に、嵯峨野・鳴滝の立石電機の創業者立石一真氏(前妻:元子。後妻:信子)宅で、立石一真氏の後妻である信子夫人に何度かお茶をご馳走になっており、その折、濃紺の着物姿で縁側に立つ立石義雄氏を二度見かけたものです。尚、信子さんは、宝酒造創立者四方卯三郎氏の長女。立石一真とは1961年再婚。
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/56250066.html

尚、私が立石一真氏の自宅で見かけた当時28歳の三男立石義雄氏の妻:市田会美子氏が市田ヤエさんの二女とすると、市田對龍山荘で会った当時の市田ヤエの年齢50歳代と合致します。

(参考)
立石ヤエ詩集「京をんな」(六月社)1957
http://d.hatena.ne.jp/taqueshix/20080918/1221743135




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(参照)

『京都・天下無双の別荘群』(ユーチューブ)

對龍山荘の詳細が映像と共に詳しく観られます。
http://v.youku.com/v_show/id_XNjE2NTYxMDg4.html

下記URLでは南禅寺一帯の別荘に関しての映像が観られます。
ニコニコ動画  http://www.nicovideo.jp/watch/sm12775819
ニコニコ動画で見られない場合は下記URLをクリック
http://www.pideo.net/video/youku/2672720722d0bffa/


ほっこり京都人 目次
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/60587479.html
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