色々な岐路・玉手箱にパンドラの箱

私の履歴書・83

《竜宮城の玉手箱を開けて》

1972年(昭和42年春のことです。
バイトの古手に浜中(仮称)さんがいました。当時としては、中肉中背。孤高。30歳弱。
何等かのオーラがあり、皆から訳も無く尊敬されていました。

尚、彼は地元の大学を卒業後、再度ここ京都のD大学に入学。そして当時は6回生。
出身が九州熊本。父親が小学校校長・母親がお花の先生。

彼は我等とのマージャンは一切しません。
金曜と土曜の夕方は、夕食前にいつの間にか消えています。

行き先は、大阪府下の竹下電子(仮称)や、竹下テレビ(仮称)の女子寮なのです。
無論、正面玄関から入れませんから、女性達に手招きされ窓から入室なのです。

彼の夕食は、女子寮の部屋で彼女らの手料理です。何処の寮も、一つの建物で百人弱。四人一部屋で地方出身の十代の女性工員が居住しています。当にハーレム・竜宮城です。
ご帰還は午前4時、茨木・高槻から下京のウナギの寝床までタクシーで。

他方、琵琶湖や尼崎・住之江競艇開催日は、昼前に消えます。
競艇は、結構強い。

遂に、彼は胸を病むのです。女子寮通いでの金曜と土曜の夜、極端な体力消耗と睡眠不足だからですよと冷やかしました。

熊本から両親が来て、話し合った結果、熊本の田舎で療養する事になりました。

でも、直ぐに帰郷しなかったのには訳があるのです。
競艇で最後の勝負をするからです。新車を買って車で熊本まで帰るつもりなのです。

最初の四日間は若干の勝ち。次の四日間では45万円プラス。さあ、次の四日間で新車を買える!!!
最後の四日間が、当に最後の四日間となりました。

結果は、ドボン!のスッテンカラリン!
熊本に帰る旅費をも原資として勝負していました。

「金送れ!」と彼は熊本に電報を打ちました。
二日後、母親が着物姿で迎えに来ました。流石お花の先生。品のある、きれいな人でした。

彼は我らの仕事で出払った語、いつものようにひっそりと帰っていったそうです。


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《私の人生を大きく変えた友》

上坂(仮称)君は、北大在学中、学生運動の主要人物の一人で、特高に追われ京都に逃げて来ました。戦後、公職から追放されたはずの特高が、名前を変えて警察の中で生きていたのです。

上坂君がアルバイトで来てから1年弱、遂に、ここに北海道警察特高二人がやって来ました。幸いにも彼は不在だったので、特高二人は帰りましたが、その話を聞いた上坂君は、急遽、左京区に借りている部屋を引き払い、姿を消しました。

半年後、彼は、ある新聞配達所で新聞配達をしていました。そこは住み込みで、裏の家一軒に学生三人だけで住んでいました。私は、時々、そこに遊びに行き、同宿の連中とも色々話をしたものでした。

話しは、一旦、飛びますが、

私が緑化工事店を辞めて、東山二条に住んでいた時の事。

大学の夏期休暇に入った或る日、「家賃がもったいないから、夏休みだけ、ここに住んだらどうや?」と言う連中等の言葉に甘えて、この新聞配達所の一軒家に引越しました。

これが間違いの元。とんでもない事になりました。

                             つづく