首切りが見世物だった京都
ほっこり京都人(11)
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他方、その時でも、京都鴨川の河原は、デートのアベックで一杯でしたね。.
.面白い事に、何故か等間隔に川べりに座りますね。
この話は、後日としまして、この京都の川原についてもう一つのこと。
皆さんご存知、京都鴨川の河原は、その昔、有る意味では首切りイベント会場でした。六条河原では、政争で破れた者の首切り処刑場。予め処刑日時を広報しておいてですね。
その三条河原では、豊臣秀次一族39名の斬首ですね。他方、新撰組近藤勇は平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首され(1868)、ここでさらし首にされました。大泥棒で有名な石川五右衛門親子は、ここで油の釜で煎殺されています(1594)。
尚、この付近の河原で斬首されたのは、政治犯だけではなく、花魁(おいらん)と心中を図った者同士とか、悪党とかもそうでした。
その処刑の様子やさらし首をじっと観続けてきたのが京都人なのです。何百年に亘(わた)ってですよ。無論、芸子や花魁(おいらん)や遊女も話しのネタで争って観たでしょうね。
何となく、京都人が分かるような気がしませんか。
続く
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被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと考えられることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた。
また、日韓併合時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた。例えば、京都の部落エリアである七条以南の鴨川堤防に掘っ立て小屋を建て住み着いたのが密入国した在日朝鮮人である。(註)戦後は不法入獄の朝鮮人の巣窟となる。
つまり京都での部落問題の実態とは、朝鮮人の特権・利権の獲得・維持のための活動となっている。