首切りが見世物だった京都

ほっこり京都人(11)

私が京都に来た1964年(S39)は、京都タワー計画の是非論が論議されていた時です。
今では、新幹線で京都駅に近づくと京都タワーが見えまして、何となくほっとしますね。

イメージ 1.
他方、その時でも、京都鴨川の河原は、デートのアベックで一杯でしたね。
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.面白い事に、何故か等間隔に川べりに座りますね。

実は、当時、京都の四条大橋は無論のこと、三条大橋五条大橋の下や橋の中空に住んでいる人がいましたね。鶏を飼っている人もいました。

七条大橋より下流では、河川敷や堤防にバラック建ての小屋が並んでいました。そこで京都市では、新たに市営住宅を建てて、これらの人をそこに収容しました。

この話は、後日としまして、この京都の川原についてもう一つのこと。

皆さんご存知、京都鴨川の河原は、その昔、有る意味では首切りイベント会場でした。六条河原では、政争で破れた者の首切り処刑場。予め処刑日時を広報しておいてですね。

保元の乱(1156)、平治の乱源平合戦本能寺の変(1582)、関が原の戦い、大阪の役などの敗者がここで斬首されています。

関が原の戦いでは、石田三成小西行長安国寺恵瓊がここで処刑されています(1600)。処刑後、彼らの首級は三条大橋のたもとでさらされます。

その三条河原では、豊臣秀次一族39名の斬首ですね。他方、新撰組近藤勇は平尾一里塚(現在の東京都北区滝野川)で斬首され(1868)、ここでさらし首にされました。大泥棒で有名な石川五右衛門親子は、ここで油の釜で煎殺されています(1594)。

尚、この付近の河原で斬首されたのは、政治犯だけではなく、花魁(おいらん)と心中を図った者同士とか、悪党とかもそうでした。

その処刑の様子やさらし首をじっと観続けてきたのが京都人なのです。何百年に亘(わた)ってですよ。無論、芸子や花魁(おいらん)や遊女も話しのネタで争って観たでしょうね。

何となく、京都人が分かるような気がしませんか。

                        続く

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戦後の京都を創った二人の首長 2008/10/8(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/55106854.html
参考)京都の部落問題について

 被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと考えられることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた。

 京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある。

1937年に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された。

また、日韓併合時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人被差別部落に住み着いた。例えば、京都の部落エリアである七条以南の鴨川堤防に掘っ立て小屋を建て住み着いたのが密入国した在日朝鮮人である。(註)戦後は不法入獄の朝鮮人の巣窟となる。

 京都は観光地としての美観を守るために、隣保館と称する市営住宅河原町や岡崎を手始めに各地に建て、それらの人々を超低家賃など様々な特権を付与し移住させた。

つまり京都での部落問題の実態とは、朝鮮人の特権・利権の獲得・維持のための活動となっている。

 ちなみに川崎市幸区多摩川の河川敷に在日朝鮮・韓国人による不法占拠集落があったが、2005年、市は一世帯当たり2700万円の立退料を支払っている。まさに部落解放同盟の勝利であった。

社会の常識を教えない小学校 2013/1/7(月)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/61702921.html

大阪市職員の現状とは (参考)京都市職員データ比較 (童話利権)2011/12/28(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/61037695.html