当時の国鉄は飲酒運転でした

私の履歴書・62

国鉄職員の秘密の居酒屋》

ここで余談を一つ。

昼食は早目に食べて、事務員の小母さん二人も含め数人で、近くのパチンコの12時開店に並びましたね。
当時は手打ち式。100円で玉を購入し全開のチューリップを打ちます。場所は西洞院七条上ル東側。

一気に10台程の台を打ちますから、その中から出そうな台に戻りそこで打ち続けるのです。
河原町のパチンコ店と違って、終了は早くて三十分。遅くても一時間半でしたね。

終了させて換金すると千五百円前後でした。負けても最初の100円だけ。
当初は、勝つと、その日の夜は近くの「居酒屋横居」で一杯。


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写真は七条新町交差点から南の京都駅方面を撮ったもの。
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この交差点左側三軒向こうに、「居酒屋横居」がありました。
その向こうが消防署と七条公設市場。


居酒屋横居の向側が「北山医院」。(この近辺の住宅は立ち退きで現在はありません)

ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーの北山修は、この北山医院の息子で、当時、京都府立医科大学の学生。

「帰ってきた酔っぱらい」(おらは死んじまっただぁ~♪)で一躍スターダムへ。
幼少の時にここに引っ越して来た北山修氏は、ここ横居へ遊びに来ていたとの事です。

尚、北山修氏の2008年現在は、九州大学大学院人間環境学研究院教授で日本精神分析学会会長。


この「居酒屋横居」では、当初、私を警戒していましたね。
と言うのは、ここは、京都駅から徒歩五分。お客さんの大半は制服の国鉄職員。

夕方は彼らで満席。つまり、ここで日本酒を飲んでから千鳥足で夜勤なのです。
当時、国鉄で帰宅を急ぐ乗客の皆さんは、酔っぱらい運転の電車に乗っていたわけです。

閉店間近に来る客は、これから夜行列車の運転手。
恐らく、半分眠って運転していたのでしょうね。



ついでに更に余談を

ひょんな事から友人となった24歳の比叡タクシーの運転手。実家は、京都・聖護院。
昼から酩酊で運転。無論、勤務中ですよ。

気に食わない客は、遠回りしたり、途中で降ろしたり。
但し、給料は、六万円。当時、大学出の初任給が二万五千円の時代。

雲助ではなく、虎助でしたよ。イケメン優男(やさおとこ)の。