うなぎの寝床の迷路に入る

私の履歴書・61

《パチンコで稼ぐも》

1965年(S40)春、とにもかくにも財布がピンチ。学生相談所は、もう利用出来ません。
やむを得ず、京都新聞職業欄を食い入るように見ましたね。

いいのがありません。と言うよりも、大学に一度、席を置きますと狭き門なのです。
思いついたのが、パチンコでした。当時は手打ち式。

それではと大学の時に買わされた薄くて内容の無い高い本を宮崎質屋へ。
そのお金を持って、四条河原町へ。

二週間、四条河原町に通いましたね。時間給換算をしてみましたら、平均時給80円で一日7時間。
餓死はしませんが、これではバイトと同じ。しかも、リスクもある!


《うなぎの寝床での住み込み》

再度、京都新聞職業欄。
以前見た募集広告が、再度、掲載されていました。数行広告。

住み込み・三食付き・仕事午前中・給料一万三千円。よし、先ずはここで衣食住の確保。
早速、そこに下宿を引き払って住み込みました。下京区の緑化工務店(仮称)へ。


イメージ 1
半間強の格子戸をくぐり、5間歩いて突き当たり、
右に3間、左に5間で天窓のある土間。
.
ジグザクク迷路の突き当たりなのです。
当にうなぎの寝床。住むというよりも「潜り込む」ですね。
.
最初に寝泊りしたのが二階の八畳間二部屋続き。
五人の高齢者と同居。
昼から囲碁を打っていましたから、毎日、横で観ていました。

(写真は、格子戸の参考例)

或る日、西本願寺の近く(五条油小路下がる)の喫茶店アスカに、ジュークボックスが入ったと言うので、わざわざここに通いました。

そして、詰碁の本を買い、ここで読んでいました。毎日夕食の時間までの数時間、コーヒー一杯で。おかげで、自称囲碁初段の元警察の黒田さんには半年弱で四子置かせました。

この頃は、もう忌まわしい大学受験をやめようと思いましたね。
でも、さてさて、将来、何になろうか?何をしようか?


          続く