京都の飯炊き小母さんの怒り
私の履歴書・63 |
.
京都の町屋・うなぎの寝床の奥は土間。.
この土間を囲んで、東側の一階が事務所兼食堂。
二階が私達の住む八畳の部屋が二つ。
.
この土間の西側の六畳間と南側中空の八畳間に住んでいたのが18歳から20歳代の七人。
内、当初、学生は、D大六回生、四回生、R大三回生の三人でした。
連中の午後は、七人の内、真面目なR大のN君を除いて琵琶湖競艇行きでした。
大学が夏休みになると、D大学相撲部の主将の葉山君(三回生)が入ってきて、皆にマージャンを教えました。だから、琵琶湖競艇のない日は、マージャンだったのです。
私は、その時までマージャンをした事はありませんでした。マージャンだけはするまいと思い、当初は横で時々観ているだけ。全く無風の部屋ですから、皆、パンツ一丁。汗、ダクダク。うちわパカパカ。
夏の終り頃、余りにも連中らが下手なので、ついついメンバーが足りない事もあり始めました。
その内、相撲部の連中や剣道部の主将もマージャンをしに来ました。
その内、相撲部の連中や剣道部の主将もマージャンをしに来ました。
相撲部の連中が安い手で上ると「下手くそ!」「並べる事しか知らんのか!」と野次ると怒って襲い掛かろうとします。でも安心。主将の葉山君が止めてくれますからね。但し、皆さん、体重100Kg前後。
《飯炊き小母さん、怒る》
ある日、仕事の時間を除いて三日三晩打ち続けていると、新入りの飯炊き小母さんが長い箒(ほうき)を持ち、部屋の掃除にやって来ました。私がメンバーに入っていない時です。
彼女は、いきなり箒を振り上げて、ジャン卓を囲んでいる連中をバンバン叩き出したのです。
まさに「殿!ご乱心!」です。
まさに「殿!ご乱心!」です。
そして、「わあ~~~!」と大声で泣き出しました。
「若いもんが、朝から、こんな くだらん事しか でけひんのか!(出来ないのか)」
「情けなっ!」 と、泣き叫びながらバンバンバシバシ。
「情けなっ!」 と、泣き叫びながらバンバンバシバシ。
当分、皆、マージャンを自粛した事は言うまでもありません。ほとぼりが醒めるまでですが。
但し、葉山君と私は、時々、午後、烏丸今出川通りの数軒ある雀荘に行きました。
メンバーは金持ちの家のボンボン学生が多かったです。ここで葉山君は毎回一万円は勝つのです。
私は、毎回、勝っても負けても五百円前後。
メンバーは金持ちの家のボンボン学生が多かったです。ここで葉山君は毎回一万円は勝つのです。
私は、毎回、勝っても負けても五百円前後。
彼女は酒に弱いので、姿が見えなくなると、よくトイレで苦しんで吐いていました。
その痩身の背中を何度かさすってあげました。
その痩身の背中を何度かさすってあげました。
尚、京都で一番高い店が、サパークラブ「ベラミ」(三条大橋東)で一人一万円程でした。
(参考)べラミの場所は、記憶では三条通沿いで新麩屋町通り東入る北側
ここは札幌のクラブハイツと良く似ていました。舞台があって、美空ひばりもここで歌っていました。
(参考)べラミの場所は、記憶では三条通沿いで新麩屋町通り東入る北側
ここは札幌のクラブハイツと良く似ていました。舞台があって、美空ひばりもここで歌っていました。
そのひばりさんが衣装替えなどする楽屋裏は、1950年代の馬小屋とそっくり。
丸太で組んだ天井屋根は葦か藁でふかれており、その穂先が天井から垂れている。
丸太で組んだ天井屋根は葦か藁でふかれており、その穂先が天井から垂れている。
中年の知り合いのホステスさんはいつも着物姿。
学生さんにはここベラミは高すぎるから来ないほうがいいよ、と諭されました。
学生さんにはここベラミは高すぎるから来ないほうがいいよ、と諭されました。
でも、当時、京都の夜の祇園では、D大の学生の人気が高く、ホステスさんにはD大の学生と同棲する人が何人かいました。
このような二十歳の日々でした。