新宿中村屋インドカリーの物語


カレーライスについて、ちょっと興味深い記事を見つけましたので、中村屋の歴史を以下に記載しました。

尚、中村屋の歴史の原本は、以下の黒文字ですが、青文字は、私にきた出版社からのメールから一部抜粋し、別途加筆したものです。



中村屋のカリーはあるインド人との出会いから始まりました。

中村屋はカレーのことをカレーと言わずに「カリー」と呼んでいます。これは、中村屋にインドカリーを伝えたインド人の発音するとおりに「カリーライス」とメニューに書いたことによります。

日本のインドカリーの原点。その誕生には一つの料理にとどまらない、国境を越えた人と人との想いが込められているのです。中村屋の看板メニューの1つでもある、「純印度式カリー」の誕生の歴史をご紹介します。

中村屋が創業したのは明治34年(1901年)。本郷の東京大学正門前にパン屋として創業しました。その後、順調に売上が伸び、店舗が手狭になったため、明治42年に新宿の現在の地に移転し、菓子の販売も始めました。

創業者は相馬愛蔵とその妻・黒光。商売とは縁のない家系に育った2人でしたが、「材料を精選した優良品を造り、適切な価格で売る」という信念のもと、現在まで愛され続けている商品の数々を生み出しました。

クリームパン、月餅、中華まんじゅう、ボルシチ・・・。
インドカリーも、その中の1つでした。

中村屋が純印度式カリーを発売したのは、昭和2(1927)年。今から90年前のことです。それまで日本で食されていたカレーは、インドからイギリスを経由した、カレー粉と小麦粉で作る英国式カレーでした。

そんな中、中村屋は小麦粉を使わない純印度式カリーを発売し、新風を吹き込みました。インドカリーのレシピを中村屋に伝えたのは、ラス・ビハリ・ボースというインドの独立運動の志士でした。

(アジアはことごとく欧米列強の支配下に入っていたがその中でも最も長い支配を受けていた国の一つがインドであった。20代からずっと、インド国内に潜伏しながらイギリスへの反乱を画策し続けた男だった。ところがついに1915年、イギリス官憲に追い詰められ、カルカッタから讃岐丸で日本に亡命する事になる。)

ラス・ビハリ・ボースはイギリスの植民地だった祖国を救うため独立運動に身を投じ、大正4年に日本へ亡命。

(その日本も安住の地ではなかった。当時「日英同盟」を結んでいた日本はイギリスに義理立てせざるを得なかったのである。)

日英同盟を結んでいた当時の日本政府は、ボースに国外退去を命じます。

(イギリスに凄惨な植民地支配を受けているというインドの現状を知っていた日本人はなんとかボースをかばおうとした。

最初に避難場所として白羽の矢が立ったのは、アジア各国の独立を目指し、日本に亡命してきたアジアの志士たちをかくまってきた実績がある玄洋社黒龍会といった政治結社であった。

しかし、イギリスという同盟国が関わってくる今度ばかりは打つ手がなかった。自分たちの拠点はすでに警察にマークされていたのだった。他に、玄洋社黒龍会とまったく無関係で、当局に追及される危険を冒して、「テロ容疑」の外国人を匿ってくれるような人間が簡単に見つかるはずがない。

しかもこのインド人は、これまで匿ってきた中国人や朝鮮人と違って人目につく外見の上に、日本語がほとんど話せない。)

彼の身の上を気の毒に思った中村屋の創業者・相馬愛蔵・黒光夫妻は、中村屋の裏庭にあるアトリエでボースを匿うことを決意。ボースは4ヵ月半を中村屋で過ごします。

相馬夫妻の娘俊子はイギリスからの追及が厳しさを増し、中村屋を出なければならなくなったボースに嫁ぐことを決意、世を忍んでの新婚生活を始めました。当時ボースは32歳、俊子は20歳。

(しかし、イギリス政府は手を緩めない。探偵会社を雇い、さらにはボースの首に懸賞金までかけて行方を捜索し始めたのだ。それからというもの、二人は一緒に逃亡生活を続けた。)

俊子は隠れ家を転々とするボースと行動を共にし支えました。ボースは相馬家の温かさに触れ、いつしか肉親以上の親しみと敬慕の念を持つようになります。しかし、26歳の若さで俊子が永眠。ボースの無念は計り知れないものでした。

昭和2年、中村屋は新宿の店内に喫茶部を開設しました。それ以前から「買物の時一休みできる場所を設けてほしい」というお客様の要望がありましたが、愛蔵は喫茶のような丁寧なお客扱いは容易には出来ないだろうと思案していました。

それが実現するに至った理由の一つに、ラス・ビハリ・ボースの熱意がありました。

昭和初期の日本のカレーライスは洋食の一つとして普及しはじめていましたが、それはイギリス経由で渡ってきた小麦粉を使った欧風料理。本場インドのカリーとは程遠いものでした。

「カラい、アマい、スッパい、味みなあって調和のとれたもの一番いい。舌ざわりカラくなくて、食べたあとカラ味の舌に沸いてくるものでなくてはダメねエ。」

これはインド人、ラス・ビハリ・ボースの嘆きです。ボースは多くの日本人が抱く祖国インドの食文化に対する誤解を解き、本場の味を伝えようと、開設を検討していた喫茶部でインドカリーを出すことを提案します。

こうして昭和2年に開設された喫茶部のメニューに、純印度式カリーという商品名が並ぶことになりました。

洗練された味覚を持つ人々に歓迎され、喫茶部の看板メニューとなったインドカリー。それまでのカレーが小麦粉を炒めてルーを作るというイギリス式だったのに対し、インドカリーは玉葱を形がなくなるまで炒め、ヨーグルトとブイヨンを加えてトロミを出すのが大きな特徴です。

この味を実現するまでも発売した後も、中村屋は様々な努力と工夫を行いました。本物のインドカリーを作るには、鶏肉、スパイス、バター、ヨーグルト等、90年前の当時ではなかなか納得のいくものが手に入りません。ならばと、バターやヨーグルトは自前の牧場を造って自家製のものに。鶏肉も種類をシャモに選定して養鶏場を作り、カリーの煮込みに最もあうよう1羽1羽大切に育てました。

当時一般のカレーが10銭から12銭程度のところ、中村屋が発売した80銭の純印度式カリーは食べた人に衝撃を与え飛ぶように売れて、中村屋の不動の名物料理になりました。カリー誕生の背景には、ボースの祖国に対する情熱があったのです。

ちなみに中村屋本店のカリーのキャッチフレーズは「恋と革命の味」インドカリー。まさにこの物語からキャッチフレーズが生まれ、今にまで引き継がれているそうです。

(原本)
中村屋の歴史

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新宿中村屋ビル 地下2階「レストラン&カフェ Manna/マンナ」

“恋と革命の味”純印度式カリーをはじめとした、中村屋を代表するメニューを提供するレストランです。時を越えて伝わる伝統の味をお楽しみください。
  【営業時間】
      11:00~22:00
      (金曜日・土曜日・祝前日 11:00~22:30)
  【定休日】
      1月1日
【所在地】
東京都新宿区新宿三丁目26番13号
【アクセス】
JR線をご利用の方
新宿駅東口から徒歩2分
東京メトロ丸ノ内線をご利用の方
新宿駅A6出入口直結
(地図)

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