昭和版ハーレム


私の履歴書 20歳代編
昭和版ハーレム

1977年(昭和42年)の春のことです。

我等ウナギの寝床のメンバーに浜中(仮称)さんがいました。彼は同志社大学6回生。出身が九州熊本。地元の熊本大学卒業後、同志社大学に入りなおしたのです。父親が小学校校長で母親がお花の先生です。

彼は決して男前ではなく、中肉中背、孤高。但し、何等かのオーラがあり、皆から訳も無く尊敬されていました。

彼の毎週の金曜と土曜の夕方は静かに消えます。
 
行き先は、大阪府下の竹下電子(仮称)や竹下テレビ(仮称)の女子寮なのです。当時の女子寮というと何処も四人一部屋で一つの建物に百人弱の十代の地方出身の女性工員が居住していました。

無論、正面玄関からは入れず、中から手招きされ窓から忍び込んでです。彼は女子寮の部屋で彼女らの手料理での夕食を摂るのです。当にハーレムなのです。

ご帰還は未だ暗い午前4時頃、茨木・高槻から京都下京のウナギの寝床までタクシーなのです。まあ~、マメな人。

他方、琵琶湖や尼崎・住之江競艇開催日も、昼前に、ひっそりと消えます。競艇は結構強いのです。

処が、竜宮城の彼は遂に胸を病むのです。女子寮ハーレムでの金曜土曜の夜の連闘による極端な体力消耗が最大の原因だと我等は彼を冷かしました。

熊本から両親が来て話し合った結果、熊本で療養する事になりました。但し、二週間後にです。

直ぐに帰郷しなかったのには訳があったからです。

競艇で、最後の勝負をするためなのです。
新車を買って車で熊本まで帰るつもりなのです。

最初の四日間は若干の勝ち。次の四日間では45万円プラス。さあ、次の四日間で新車を買える!!!

最後の四日間が当に最後の四日間となりました。
ドボン!です。

「金送れ!」と彼は熊本に電報を打ちました。

翌朝、母親が淡い着物姿で飛んできました。
熊本から寝台で来たのでしょう。
流石お花の先生。品のあるきれいな人でした。

彼は我らが仕事で不在の時、ウナギの寝床を去っていきました。



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