大学卒業での一升瓶の価値


私の履歴書 20歳代編
大学卒業での一升瓶の価値

オムロン立石義雄名誉会長の「日経新聞」(2012/11/08付)「私の履歴書」の中で、同志社大学卒業に必要な英語の単位を貰うため、京都大丸近くの英語の担当教官:田中彌市郎先生を訪問し、英語の点数を可にして欲しいと頼み込む。結果、ギリギリの60点を頂戴し、無事卒業でき、改めて一升瓶を持参してお礼に訪問したとの記述があり笑ってしまいました。

同じ時代、昭和30年代から40年前後の同志社大学では、卒業単位が不足すると必殺の技は『教授宅に一升瓶持参で単位を貰いに行くこと』でした。

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同大の運動部の連中のもう一つの必殺の技は、『答案用紙に手形を押すこと』でした。試験には墨汁と筆持参です。無論、解答欄に手形以外の問題に対しての記述はありません。
 
但し、「私は○○運動部です。我が大学に貢献しました」との添え書きで実績一覧を記入します。これで単位を貰えたのです。
 
昭和40年代後半、後輩の話では、専門科目以外に手相を研究している教授がいて、解答欄に墨で自分の手形を貼り付けるだけで単位を貰えたそうです。

1967年(昭和42年)友人の同大相撲部の主将葉山君(仮称)に頼まれ、彼と共に一升瓶一本をかついで銀閣寺の1910年代に西田幾太郎等が散策した哲学の道の土手下に住む教授宅を非哲学的に訪問しました。

その後、彼は単独で何軒かの教授宅を同じく一升瓶を担いで訪問。無事、卒業出来ました。

反して私目は、大学に7年在籍するつもりが、6年目(6回生)になった時、両親の懇願と結婚の予定もあり、どうしてもその年に卒業せざるを得ない状況となりました。

処が、卒業できる必要単位に対し、登録できるのは60単位(15科目)で、これは一科目も落とせないギリギリだったのです。

然し、反骨精神旺盛な私目はゼミ以外の授業は一切出席せず、然も、夫々の教科書と言えるご指定の薄っぺらで然もバカ高い当該教授著書の法律書は一冊も買わず、彼らの学説に反するだろう夫々の法律書と、判例月刊誌『ジュリスト』(有斐閣)、月刊誌『法律時報』(日本評論社)で独学しました。

法律の学説には主として『主観説』『客観説』『折衷説(せっちゅうせつ)』の三つがありますから、法律の条文別に学説が違えば結論も異なるのです。

さて、いよいよ卒業をかけての試験となりました。
やはり六法全書持ち込み可や、或いは、講義した教授の専門分野の限定範囲内からの出題や、或いは、更に絞って予め出題範囲を指定したものもありました。

当然、私目はそれらを知る由もありません。
にも拘わらず、各14科目(56単位)での設問に対して夫々の教授の学説に恐らく反論する立場でスラスラと書けました。

処が、最後の一科目4単位の試験:秋山哲治教授の『刑事訴訟法』でつまずきました。私の当に盲点を突かれたのです。設問に対して彼の学説を述べよという寧ろ簡単なものです。それも最後の講義で彼の著書のそれも数ページを予め指定したということです。

参りました。やむを得ず回答用紙一杯に夫々の学説を書き恐らく彼の説と反するだろう持論を展開しました。

そして不安は的中しました。
1点足らずの59点で不合格。

この時ほど、試験終了直後に一升瓶を持って秋山教授の自宅を訪問すべきだったとつくづく実感したことはありませんでした。


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