やはり他人の人望を許せない人


私の履歴書:50歳代東京編

『やはり他人の人望を許せない人』

実は、男山製造部長が手を打てずにいた組み立て工程を担う下請けの火事による大幅な我が社への納期遅延を、私が要の部品製造下請け各社を直接訪問し、何とか納期に間に合わせることが出来、それと同時に製造部の連中からは私の製造部長待望論まで噴出してから間もなく、メンテナンス事業部小野取締役本部長(註1)と偶々二人きりになった時のこと。

彼は私に言いました。
回りくどい言い方でした。
私が恐れていたことを。

「幹部は太秦社長個人に対して信頼と言おうか一種の崇拝をし、それに基づき情熱をもって仕事に取り組んでいる。社長はこの辺もよく見ている。

処がある幹部は或る日、社長の実態を体感することとなる。それは、社長のジェラシーをだ。ある幹部は社長のジェラシーに基づく仕打ちを浴びた時、それまでの社長に対しての崇拝と仕事に対しての情熱は一気に失せる。

無論、社長はそれを見越しての所作なのだ。次に待ち受けるのは、羽ばたけず、然も失墜するしかない部署への配置転換だ。」

小野取締役本部長がそこまで言った時、次の会議の時間が迫っていたので打ち切りとなった。

過去、私は何度そういう事態に遭遇したきたことか。30歳代、同僚からは「水無瀬は崖に突き落とされ、ようやく這い上がってきたら、また崖に突き落とされる」と笑われたものだ。

然し今度は今までの社長の嫉妬(註2)とは事情が全く異なる。製造部の課長、係長、一般職までが本社内部で水無瀬製造部長待望論で騒いだからだ。

太秦社長は、このような状況を忌み嫌う。
人望を集めるのは太秦社長以外は許さないのだ。

その第一波が、町田部長に代わっての札幌での私の後任の福知参事の部長就任であり、そして第二波が、程なく、福知部長が私の上司となる辞令だった。



(註1)
小野取締役事業部長
東京転勤・半地下生活の始まり

戦えない鍋蓋組織論の展開

(註2)
社長の嫉妬 2017/6/23(金)
「川口社長がどうしても君を欲しいと言って太秦社長に懇願していましたよ」


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