記憶にある壬申戸籍からの仮説


母が亡くなってからの数年後の2003年頃、父の書斎の机の引き出しにあった二通の戸籍謄本の内、一通の戸籍謄本は、本荘市が昭和32年発行したものです。

これは明治5年(1872年)に編製された壬申戸籍(じんしんこせき)を元に作成され、恐らく1898年(明治31年)戸籍法による改製原戸籍で書式が変更され、壬申戸籍を書き直したもので、20個前後の付箋が付いたものでした。

尚、この壬申戸籍では、寺の過去帳(江戸時代の宗門人別改帳)に基づいて明治5年現在の7代前に遡った名前から記入されていました。(※)昭和43年までは壬申戸籍の取得は各役場で可能でした。

今回、改めて7代前の一部を書き直したのは、以前書いた江戸時代の私の祖先の名前で不明だった箇所が昔のメモから分かったからです。
 
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江戸時代
平八
      注1)添え書きがあり、その文中に
         能登と瓦の文字があった。
      注2)平八と次の籐八郎の間には
         何故かかなりの余白があった。
■▲籐八郎 
         注3)ここが何行分かの余白
■▲籐八郎 
■▲忠右衛門  注4)この名前は歌舞伎・浄瑠璃の主人公
■▲菊五郎    注5)ここでも名前は歌舞伎役者
■▲籐八郎 
○○○○    注6)ここの苗字は■▲ではなかった
■▲佐助(?) 注7)ここの名前佐助には自信がない
■▲菊五郎  注8)菊五郎が二度登場する

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但し、この壬申戸籍は、私が父の書斎には誰も入らないだろうと思い、父の机の上に瓦師平八の新聞記事と共に置いていましたが、ゴミと間違われ捨てられてしまいました。

処が、2008年(平成20年10月9日)、本荘市役所で私の祖先の戸籍謄本を9通発行してもらった中に、私の記憶を裏付けるものゝ一部を発見しました。
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この戸籍の中で、■▲菊五郎の他に■▲吉太郎(註)と菊五郎の長男で私の祖父である鉄之助(註)が登場しています。

改めて、私が見た壬申戸籍の内容に戻り、福井県調査記録と見解本『粘土瓦の起源と変遷』によると、以下の仮説が成り立ちます。

(仮説)
石脇村(現、由利本荘市石脇)の平八は、越前(福井県)で瓦焼きの修業をします。腕が良く越前でも『越前瓦師平八』と言われ、石脇に戻って瓦焼きを始めます。

その内、能登の輪島から粘土を帆掛け船で石脇まで運び、空になった船は転覆の恐れがある故、石脇から地元のコメや特産品を積んで能登へ運航し、能登で粘土を積む。

この能登と石脇の往復を繰り返すうちに、やがては日本海を南下し、山口県から瀬戸内海に入り、大坂でコメなどを降ろします。その復路では、大坂での特産品などを積んで、瀬戸内海から日本海を北上する、いわば、瓦屋の北前船による廻船問屋です。

使用する船の耐用年数は僅か6年。然も、それまでの各年には修理を要しました。そこで冬季には海が荒れるので船を大阪湾の大坂や兵庫の港から陸上げし係留し、修理をしました。これらの船は板で囲んだから、囲船(かこいぶね)と呼ばれました。

この冬季では船員は陸路ではるばる石脇に帰り、春先には再度陸路で大坂までやって来、出帆(しゅっぽん)しますが、船主である■▲一族の長は、冬季期間中、船の修理に立ち会うために大坂に滞在します。この期間中、歌舞伎を上方(大坂や京都)で観覧し、歌舞伎にぞっこん惚れ込むことになります。

当時、苗字の無かった当主は、豪商として苗字(名字、なあざな)を正式に名乗ることを正式に許可されます。そこで祖先代々使っていた苗字■▲か、又は歌舞伎役者の苗字■▲を名乗ったか、或いは、地名の石脇(字)■▲です。

名前は、これも同じく歌舞伎役者の『坂田藤十郎』の藤十郎の十を平八の八に変えて藤八郎と名乗ります。

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以降の嫡出子への命名は、歌舞伎役者等の名前となります。

■▲菊五郎は、歌舞伎役者『尾上菊五郎』から。
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■▲忠右衛門は、歌舞伎・浄瑠璃の中の主人公『黒船忠右衛門』から。

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黒船忠右衛門出入湊 歌舞伎・浄瑠璃外題。初演 享保16.2(大坂・岩井座)

■▲鉄之助(私の祖父)は、歌舞伎役者『澤村鐵之助』(二代目澤村田之助)から。
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但し、私が見た壬申戸籍の中での吉太郎の名前の記憶はありません。それもそのはずです。掲載している戸籍を見る通り、菊五郎■▲吉太郎の四男として生まれましたが、■▲佐助の養子になり、佐助の家督を相続し、佐助の直系となったからです。

尚、菊五郎の実父である■▲吉太郎の名前は、同じく歌舞伎役者『小川吉太郎』からです。
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「伝兵へ小川吉太郎」(三代目)「女さる廻し小よし中村三光」(初代)
江戸時代 1824年(文政7) ボストン美術館



以下、参考まで

(参考1)五代目岩井半四郎
安永5年(1776年) - 弘化4年4月6日(1847年5月20日
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助六所縁江戸櫻』の三浦屋揚巻

(参考2)三代目大谷鬼次(1759–96)
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東洲斎写楽画「大谷鬼次の奴江戸兵衛」(演:三代目 大谷鬼次)Wikipedia

(参考3)初代坂田藤十郎『鋸くず』(複製)東京中央図書館加賀文庫蔵

『私の歴史夜話』

坂田藤十郎(初代)(『野郎関相撲』より)

和事(わごと)の成立 ~初代坂田藤十郎
元禄年間[1688年~1704年]前後の上方[京・大坂]では、後に「和事(わごと)」とよばれるようになる柔らかく優美な演技を得意とした、初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍しました。

藤十郎は、1678年[延宝6年]に上演されて大評判となった『夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』の伊左衛門(いざえもん)役をはじめとして、本来は身分が高いにもかかわらず、理由があって落ちぶれている「やつし」とよばれる設定の役を演じて人気を得ました。

人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作者として有名な近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、藤十郎のために『けいせい仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎の人気を支えました。(以下省略)

(参考5)黒門忠右衛門 画像

(参考6)歌舞伎役者『小川吉太郎』から。
初代(1737~1781)、三代目(1785~1851) 何れもやつしがたを得意とする。

(参考7)江戸中村座澤村鐵之助の名で子役として初舞台
二代目 澤村田之助
上演年月日 文化10/09・(1813/09・)
上演場所 江戸・中村

夭折の女形
江戸時代後期に活躍した二代目澤村田之助(さわむらたのすけ・1788~1817)は京都生まれの歌舞伎役者です。役者である父を早くに亡くし、下積みの苦労を味わいましたが、際立った美貌を武器に女形舞踊の大曲「娘道成寺」で頭角を現わしました。京坂での活躍にとどまらず、江戸でも評判を集めましたが、不幸にして29歳の若さで亡くなりました。
菓子資料室 虎屋文庫

澤村田之助澤村鐵之助早稲田大学文化資源データベース
https://archive.waseda.jp/archive/subDB-top.html?arg={%22item_per_page%22:20,%22sortby%22:[%221179a%22,%22ASC%22],%22view%22:%22display-simple%22,%22subDB_id%22:%2252%22}&lang=jp

(参考8)戸籍の歴史