忘却出来ぬ在職中の虐待


私の履歴書:60歳代編
忘却出来ぬ在職中の虐待

平間君とは30歳代前半の東京支店時代の同僚で、彼は青葉支店長(註1)の金魚の糞として支店長の福岡支店転勤に応じて福岡支店へ。何年後か彼は福岡支店のある部署の課長に昇進。後、腎臓を患い透析をしている彼は、青葉支店長の温情で暇な大分出張所長として転勤。そこまでは知っているのですが、その後の消息はプツリと消えました。

そして40歳代後半、私の本社営業企画課長時代の或る日のこと、彼から突然自宅に電話が来ました。彼はいつの間にか東京の子会社・関東ウズマサ・メンテナンス(株)に移籍出向し、業務課長をしていたのです。私は40歳代の初めの1年半、中国ウズマサ・メンテナンス(㈱)の常務をしていたので経験豊富だろうから相談に乗って欲しいと言うことでした。

以降、3~4年毎に相談の電話が来ました。当時は、彼の会社の山村社長(兼、ウズマサ取締役)(註2)のことや、膨張するパーツ在庫のこと、それに融通の利かないメンテナンス課員に対する彼の悩みでした。或いは、彼は透析をしているので業務に支障をきたしていることなどでした。

彼が電話をしてくるのは困った時だけ。相談の電話に対して私が回答すると、以降、次の問題が発生するまで電話をしてこないのです。無論、相談物件がどう解決されたのか等の電話は無いのです。とにもかくにも彼が困った時だけです。

私が㈱ウズマサを早期退職以降間もなくの2003年、また何年振りかで電話が来ました。今度の相談内容はこれまでとは全く違いました。

彼は会社を辞めると言ってきたのです。新社長の皮肉交じりの雑言や処遇にもう耐えられないと言うのです。私は言いました。「あなたのお子さんは未だ中学生でしょう。会社を辞めたら何処があなたを採用してくれるの? よしんば入社したとしても今の収入の半分に落ちますよ。」と。
 
 更に 「子育てが終わるまでは何とか会社にしがみつくこと。何を言われようが耐え忍ぶこと。首にされた場合、裁判での証拠の一つとして、雑言を言われた時や処遇の際、その日時を明記し、その内容をノートに記録すること。或いは、首にされる前に、その記録を携えて労働相談所に行くこと。」と。

次に電話がきたのがそれから3年後でした。
彼 「新築マンションを買うことにした。」と。
私 「大丈夫かい。会社での問題を抱えながら払っていけるの?」
彼 「『労働ユニオン(合同労組)』にバックアップをしてもらい、定年まで働けることになったので退職金をまともにもらえるし、妻の実家が援助してくれるから。」
私 「それは良かった。処で身体の方は?」
彼 「叔父さんが腎臓を分けてくれたので移植し、今は透析から解放されたよ。」
そこで電話は切れました。

それから2年後、電話が来ました。
彼 「㈱ウズマサOB会を東京でやるから出席しないかい? みんな君に会いたいと言っていたよ。」
私 「あなたの親分の青葉元常務(註1)や山村元専務(註2)も出席するのだろう?」
彼 「そうだよ。先日会った山村元専務は、今、伊豆の伊東に住んでおり、毎朝、横断歩道に立って通学用の旗振りをしているとか。」
私 「堪忍してくれ。あの連中は現職時代、私にどんな仕打ちをしたかを君は知っているのかい?」
彼 「青葉元常務は、君に謝りたいと言っているよ。」

私 「君も知っているように、昭和51年頃、君の給与が月2万円弱アップしたとき、私のアップは僅か数千円。このようなことが3年。以後、青葉元常務のお友達の広島の辰巳所長の部下で3年半。

 37歳の時、本社FF営業部へ転勤。僕の直属上司の寺前課長が私の給料額を見てびっくり。急遽、私の給料を3万円あげてもらって、更に40歳の時、管理職になり、子会社に出向するとき、それでも安すぎるというので、関連子会社管轄の池内室長が太秦社長に申請し4万円アップ。46歳の札幌を去るとき、後任の福知所長との給与格差を是正するために7万円アップ。

 この給与格差の累積を合計すると何千万円だよ。更に給与額は退職金や年金に反映されるから、私の一生は数千万円の損失にのぼるんだよ。それを補償でもしてくれるのかい?」

彼 「その給与については青葉元常務も悪かったと反省している。当時、社員に昇給額格差などをつけなければよかったと。」

私 「給与だけの問題じゃないのだよ。太秦社長の推挙で私が広島の子会社の常務として出向するとき、役員会で水無瀬は出来るはずはないと猛反対したのは当時の青葉常務じゃないか。」

 更に私 「その広島から新設札幌営業所に転勤するときも、同じく役員会で水無瀬に商業組合を任せたら、会長と直ぐに喧嘩をする(註1)からと、ここでも猛反対したのは青葉常務じゃないか。これらのことは、太秦社長から直接聞いているし、T銀行から出向後移籍した丹治常務取締役からも同様なことを聴いている。」

ダメを押す私 「僕の親父が死んだとき、水無瀬は長いこと休みたくて親父を死んだことにしたと本社で騒いだ(註3)のが当時の青葉部長なんだよ。」

彼 「そんなこともあったのか。」
私 「君は単にすまんかったの一言で昔のことを僕が笑って水に流せると思うのかい?」

そこで彼は電話を切りました。
以後10年間、彼からは二度と電話はかかってきませんでした。

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(註1)
No.127 《男の嫉妬は十年以上続きます》
私、絶体絶命。思い余って江東・墨田商業組合の会長宅の洋菓子ケースを思わず拳でドォ~~ン!と一発。それで翌日の展示即売会への我が社の参加許可を得ました。それは青葉支店長が5年間通いながらも成し遂げられなかったことを私が一夜で成してしまいました。然もその展示会で我が社は最多台数を販売。処が以後、支店長は本社や役員会の席で訴えます。「水無瀬には、商業組合を任せられない。きゃつは、直ぐに会長と喧嘩をする」と。

私の履歴書・120 《中年男の嫉妬》
青葉支店長等が何年かかっても開けなかった悲願の国鉄との取引口座。私に簡単に取引口座を開かれて立場が無かったのでしょう。国鉄本社からの注文書が郵送されて来ても青葉支店長は水無瀬が偽造した文書だと言う。印刷された国鉄の封筒に書類に日本国有鉄道の角印を私が盗んで偽造したと言うのだ。

私の履歴書・201《人が私の為に動いてくれたから今日の私がある》
カネボウ食品との新規取引口座開設活動にあくまでも妨害しようとした青葉部長。

(註2)
私の履歴書・306 (函館戦争②)これぞ孫子の兵法!
初秋、山村東京営業本部長が私に会いたいと言う。
彼の宿泊先は札幌全日空ホテル。
「水無瀬所長、函館から手を引いてくれないかね。函館の数字を見ると無残なものじゃないか。それなら、函館で強い第百事務機に函館を任そうと言う事になったのだよ。」

私の履歴書No.124 《上司の罠(わな)》
私は直属上司の山村部長にこれまでの私の営業活動状況を報告した。「AS社と来週、契約することになりました。契約金額は一億九千七百万円。粗利額一億一千万円 粗利率55.8%です」と。処が山村部長曰く。「水無瀬君、その売上、私に任せてくれないか。実は、私担当の子会社AB社(仮称:羽田社長)が潰れそうなのだよ。その売上を回してもらえれば、何とか子会社を助けられる」。更に「君には、KRビールへの売上六千万円をあげるよ。粗利額は僅かだが」。そう言って彼はまんまと私を騙した。

(註1)(註2)
私の履歴書No.152《「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の袈裟の私》
山村部長と青葉支店長とは犬猿の仲。青葉支店長は山村部長への恨みを、山村部長の部下の私に代わってはらすのです。

(註3)
No.182《世の中には、まさかこんな人がいる》
父の葬儀を終え、職場に復帰への報告をしたその電話で、本社総務課長は総務主任と代わりました。「水無瀬君、君の事で青葉部長が変な事を言って本部で騒いでいましたよ。水無瀬君は、連続して休みをとりたいから、父親を死んだことにしたのだと」