私の履歴書:24年後の後悔


私の履歴書 60代編
24年後の後悔

2015年6月6日(土)午後4時15分頃の入浴中、何故かふと思い浮かんだ。

それは24年前の1991年(平成3年)2月、私が札幌を去ってから間もなく、北見営業所の塚本所長と釧路営業所の植野所長の二名が退職させられたことを。

彼ら二人は顧客から徴収した修理代金を着服した故という。

私が転勤で札幌を去って間もなく、本社管理部堅田課長(仮称)が経理監査で北見と釧路を訪問。

その時、堅田課長は彼らに対して言った言葉とは、
「子会社時代の領収書を未だ持っているはず。家宅捜査をしてもいいか。」
彼らは応答した。「それは困ります。」
堅田課長は畳みかけた。
「家宅捜査をされたくなかったら、辞表を提出せよ。」と。

私は、この24年後に初めて大失敗をしていたことに気が付いた。
それは、札幌を去るときに後任の福知所長に渡した引き継ぎ書に添付した私の4年間の札幌時代の顛末レポートにあった。

そのレポートのなかで私はこう述べている。
私が着任する前の子会社時代、彼らは取引先との飲食や冠婚葬祭の祝儀・香典の出費は一切禁止されていた。子会社に金が無いのである。無論、残業手当も無い。故に、子会社のトップは、修理代金を個人の収入に出来ることを暗に認めていた、と。

私の着任当時、全道25商業組合の大半に我が社は不評だったが、良好関係を維持出来てきたのは唯一ヶ所であり、それが留萌商業組合だった。元旭川所長時代の塚本所長はその修理代金を組合事務長との交際費として使用していたからこそであった。

私はあっと気が付いた。
私は、塚本所長のかっての行動を高く評価し、後任にそれを伝えるべくレポートにしたゝめたのだが、それを元とし、彼らに鎌をかけたのだ。それが仇となっていたとは。

怒り狂った彼(福知)の妻が包丁を投げる

更に堅田課長は執拗に聞いたそうである。
「その修理代金は水無瀬所長との飲み代になったのでは?」
彼らはきっぱりと返答したとのこと。「それは絶対ありません。」

それは当然のこと。私は部下との飲食や地方に出張した際、彼らに一銭も払わせたことはない。全て私が払っていた。

今度のこの件は軽微なことであり、始末書で済むはずなのだが、堅田課長の過重な処罰にはやはりそうだったのかと思わせる。

先ずは、かねてから堅田課長とは何故か呼吸が合わなかった。彼の感情と立場がそうさせていたのだろう。

更に彼は山村東京営業本部長の指揮下、私に道南から撤退せよとの函館戦争を仕掛けてきたメンバーのひとりである。そして彼らは惨敗した。

私の履歴書・273(函館戦争①)
背水の戦略とは!『徹底的に惨敗・敗走すること』 

この敗者特有の恨みで、何とかして私の不正や揚げ足をとりたかったのだろう。然し、それも徒労に終り、代わりに犠牲になったのが北見の塚本君であり、釧路の植野君である。

付加するなら、堅田課長と福知所長とは同い年で中が良かったことも、もう一つの根底にあったようだ。

然し、27年も経つ今、当時を改めて回顧する自分には、大失態を後悔する自分と、当時を懐かしく思う自分が心の中でからみあう。



※ 私の履歴書・40歳代北海道編 目次