『龍安寺石庭』解釈再思考
(前回記事)
『京都桜満開:騒音の消えた金閣寺』 2018/3/30(金)
この時の時刻は、もうお昼の12時をとうに回っていましたので、孫たちは「お腹がすいた!」と騒ぐのを抑えてのことです。
龍安寺の80台の一般駐車場(無料)は、桜の季節ですから空いていました。
一般駐車場は、画像右端の観光バス用の第一駐車場から上がった所で、周囲はぐるっとソメイヨシノの並木で今が満開でした。ここは桜では有名でないですが、ここだけでも桜を充分堪能できました。
この画像は、駐車場北側の枝垂れ桜。
さて、改めて『龍安寺(りょうあんじ)』とは(引用註1)
※細川勝元(1430~1473) 室町中期の武将。足利八代将軍・義政に仕え、幕府の管領(かんれい)となる。将軍家の跡継ぎ争いで、山名宗全(やまなそうぜん)と対立、応仁の乱には東軍の総大将として戦い、勝敗が決する前に死亡。
山門から
龍安寺石庭(方丈庭園)とは(引用註2)
名庭として知られていたとは言え、昭和の初めのころは苔むしていたそうですし、見学者もそれ程多くなかったと聞きます。
今から30年余前、事態を一変させることが起こりました。1975年英国のエリザベス女王が訪日された折、この龍安寺石庭を見学され絶賛された(註5)のだそうです。今日では一日数千人の来訪者も珍しくないそうですが、感想を求められた女王が「私には解りません。」と言われたとも伝えられていますように、解らないことの多い庭園でもあります。
(註5)つまり、エリザベス女王が絶賛するまで、この石庭は教科書に掲載されるも、巷ではそんなに評価されていなかった。尚、私が最初に訪れた1964年(昭和39年)春、石庭には僅か数人の観光客しかいず、やがてここにいるのは私達3人だけとなった。
この石庭が作られた室町時代末期1500年頃、お寺の周辺には高い樹木が無く、南側の菜種油を混ぜた土で造られた高さ1m80cmの油土塀の遥か向こうに、石清水八幡宮のある男山が霞んで見えたとの古文書に記録があったはずです。
このことで分かるように、視界を妨げる土塀の外の樹木は、本来、あってはならないものなのです。木々の白砂に落とす影を作るための樹木ではありません。
龍安寺から八幡の男山までの距離は、直線で約15km強。
私見ですが、この石庭から西方に洛北、東方に東山、南東に洛中(京都旧市街)や洛南の寺社仏閣の塔や、南方に男山(石清水八幡宮)が見えるのと、昨今のように樹木で全く見えないのとでは、個々人による石庭の解釈が全く異なってくるのではないかと思います。
石庭を造った当時、土塀の遥か彼方に霞んで見えた京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)とは!
この画像右側にご注目。山の麓まではっきりと見えるでしょう。つまり、向こうの麓からもこちら男山がよ~く見えるということです。
●眼を閉じ、あなたが見た現在の木々に囲まれた石庭を思い出して下さい。次に樹木の消えた土塀の向こうに、京都の寺社仏閣の塔や遥か彼方に霞む男山が見える情景をイメージしてみてください。それが方丈の畳の部屋に座し、石庭の15個の総てを見、おもむろに瞳を上げた時、室町時代の行政のトップの瞳に広がる情景なのです。
(見つかった記事)(引用註2)
1799年(寛政11年)に出版された秋里籬島『都林泉名勝図会』に、龍安寺が紹介されています。図会中の挿図には次のような書き入れがあります。
「むかし細川勝元個々も別業をかまへ住せらるゝ時、書院より毎朝男山八幡宮を遥拝(ようはい)せんが為に庭中に樹を植えず(註6)。奇巌(珍しい形の大きな岩)ばかりにて風光を催す。これを相阿弥の作りしなり。名づけて虎の子わたし(註7)といふ。洛北名庭の第一なり。後年塀の外の古松高く老て昔の風景麁(そ、雑なこと)となる(註8)。その上近年方丈回禄(火災の意味)しぬればむかしを情を慕れ侍る。」
(註6)庭中に樹を植えず
この石庭の目的の一つが、遠くから石清水八幡宮を参拝するためであり、拠って、その視界を妨げる木々はあってはならないもの。
(註7)虎の子わたしの石組
石庭は、中国の故事「虎、彪を引いて水を渡る」に由来する虎の子渡しで、親虎が子虎を連れて大河を渡る姿に見立てた配石と説明している。尚、南禅寺本坊方丈庭園にも「虎の子渡しの庭」がある。
トラは三匹の子を産むと一子は彪(ひょう)で、母虎がいないと他の二子を食ってしまうとのこと。そこで川を渡る時は、まず彪を先に渡しておいて、次に一子を渡して彪を連れて帰り、次には彪を残して別の子を渡し、最後に再び渡す、という伝説である。窮地の創意工夫を意味している。(引用註1より)
(註8)風景麁(そ)なる
換言すれば、寺はズボラで、この石庭の手入れをせず、周囲の木々を勝手に生えるが如く放置し、視界が妨げられている。つまり、この寺では、オシドリの泳ぐ鏡容池(きょうようち)の方に人気があり、石庭は二の次だったことを意味す。
この様に勝元は毎朝石清水八幡宮を遥拝していた様ですが、同時に洛南一帯を監視していたとも考えられています。
(上記概略説明文の原文)(引用註3)
(註9)この江戸時代の観光用絵図(都林泉名勝図会 巻四 画像19)では男山の遥拝や洛南を見渡せる左半分が描かれていない。
「後年塀の外の古松高く老て、昔の風景簾(ソ、雑)となる」と書かれているから、左半分も同様に背の高い古松だらけだったろう。
上記右の最初の一行目に、「龍安寺の林泉は封境に名池あり、鏡容池(きやうようち)と号す。冬日鴛鴦(えんおう、オシドリ)多く聚りて洛北の眺望世に名高し。」 とある。この意味は、当時、巷では石庭よりもオシドリの浮かぶ鏡容池の方に人気があったことを意味す。特に「洛北の眺望世に名高し」とあるように、石庭の眺望ではなく、こちらからの眺望が素晴らしく、遥かに有名だったと述べている。
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上記右から6行目
「塔頭東皐院の林泉(りんせん)(註10)は遠景を興とす、坐にして八幡 山崎 淀川のながれ、小倉の江(おぐらのえ) 伏水(ふしみ) 鳥羽(とば) 羽束師(はづかし)など鮮かに見えて、風光微妙なり。」(註11)とある。
(註10)林泉
庭園のことで、風雅な呼称。
(註11)
石庭のある方丈から十数メートル低いにも拘わらず、鏡容池(きょうようち)の傍に建つ東皐院(とうこういん)の庭からの眺めは素晴らしく、名所となっていたから、石庭からの眺望は必要なく、手入れはされていなかったことを意味す。
尚、ここで記されている眺望で見える場所7ヶ所は、下記の地図の通り。
(註12)小倉の江
【推定外観図】(引用註1)
大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社・『日本庭園史新論』平凡社より抜粋 秋里籬島あきざとりとう著の『都林泉みやこりんせん名所図会めいしょずえ』に【当山に八景あり、是みな方丈よりの遠景を以て風色とす。
(画像左)【方丈から見た石庭の東側風景】歩廊には壁が無く東庭と土塀越しに東山連峰が見えた。左にある石組群は東山と対照的に厳格に造形した。
(現在の東側風景)東側の石庭は無くなり、その境目の歩廊も無くなり、代わって土塀と建物となっている。然も、樹木が高く生い茂り、東山連峰など見えるどころではない。
(画像右)【方丈から見た石庭の西側風景】南西側の景色は仁和寺の五重の塔が見えたであろう、と推察している。
【推定復元図】
石庭の奥行きは歩廊の東側にある東庭と同じ、玄関は土塀の位置に、歩廊に壁が無い、方丈は現在より一回り小さい、方丈の中心から総ての石組み(15個)が見渡せる、遠近法を駆使した石組み。
現在の総ての石組み(15個)が見える位置は、下の画像では、この部屋の右から畳三枚目の右端で、更に、手前から奥に向かって畳一枚目と二枚目の境目にあたる。
【現状平面図】
方丈が焼失後大きな方丈が移設されたため、石庭の北側が1.5m迫り出した。玄関は方丈と共に移設されたため約5mも石庭に入り込んだため、壁が作られ東側の見通しが悪くなり、さらに石庭の東側は最大1m狭くなった。石庭東側が削られたため、西側も1m狭くした。(註13)
(註13)応仁の乱で寺は焼失。以降、何度か再建→焼失を繰り返す。現在の方丈は、寛政9年(1797)の火災により龍安寺の方丈が焼失し、西源院の方丈を移築。拠って、そのでかすぎる移築した方丈を据えるために石庭の周りを縮小したということです。
【龍安寺石庭の真実】(引用註1)
(説1)「七五三の庭」
石庭はあまりにも有名であるが、その誕生に関しては諸説ある。その一つとして七、五、三は分解することが出来ない数字で、めでたい数とされ、またこれにより森羅万象(註14)が生ずると信じていた。
(註14)森羅万象(しんらばんしょう)
あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。
例えば魔方陣のように縦、横、斜とどの方向に三つの数を加えても和は十五になることから、数字に宇宙の神秘を見出していた。
(説2)この庭園を寺の名前から解釈する説がある。ずばり「龍が安まる」なので当寺の下段にある池(鯉の住処の潭にみたて)から鯉が階段(三級岩)を昇り龍になった様子をあらわしている。
「碧巌録に示された臥龍」説
方丈前の白州には右側を龍の頭とし両手、両足はって蛇行している様を表している。確かの寺号は最も端的にその寺の由来を表すものである。
また大徳寺(龍源院)も雲海を龍が蛇行している。
尚、現代の庭であるが東福寺(龍吟庵)は龍がとぐろを巻いている例がある。
(総論)
龍安寺で渡されるパンフレットには、「極端までに象徴化されたこの石庭の意味は謎に包まれており、見る人の自由な解釈に委ねられています。」との説明書きがありますが、当初の庭の広さが縮小され、更に、視界が閉ざされた現在の石庭では、作庭師の意図するものとは全く別物となっています。故に、龍安寺の言う「解釈はご自由に。」という台詞(せりふ)の意味がお分かりになると思います。
分かり易く言うと、下記の左の版画が皆さんご存知、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。これが作庭師の描いた本来の石庭としますと、江戸時代後期以降、現在までの石庭は、右の版画に相当するのです。
ですから、三艘の小舟や遠景の富士山の消えた右の版画を見て、この浪裏版画は哲学的であるという思考・論議は空しいものと言えます。
その点を知ってか知らずしてか、いずれにしても、エリザベス女王の「私には解りません。」が、ある意味では正解でしょう。
処が、女王が解らない程、石庭は哲学的であるとし、急遽、騒ぎ扇動したのがマスコミと日本政府で、それに踊らされたのが、私達観光客ということになります。
但し、解釈に充分考慮に入れなければならないのは二件。
一つ目は、石庭が作られた時の資料は焼失しており、詳細は不明故に多種多様な起源説が唱えられているものゝ、寺の名前が『龍安寺』という『龍』の名前がついている根拠は何か?ということです。
二つ目は、この石庭の石の数が15個であり、説1によると目出たい数となっていることです。この目出たい15石を一目で観れるのは、方丈の部屋(当時書院)の定位置に坐する管領という行政権力を握る細川勝元だけだったということです。ここに、この石庭の原点がありそうですね。
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知足(ちそく)の蹲(つくばい) (引用註1)
鏡容池(きょうようち) (引用註1)
また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所、別名おしどり池とも呼ばれた。また、天気のいい日に亀が甲羅干ししている「水分石みくまりいし」は池の水位を測るために置かれた石である。
この池の西側の畔に建つ西源院は、現在、日本庭園を眺めながら精進料理を食べる料亭となっています。
(引用註1)京都観光タクシー同友会の観光案内
(引用註2)国際造園研究センター
(註3)龍安寺図絵画像
京都イラスト地図
「謎深き庭─龍安寺石庭」を巡る「五十五の推理」
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