自ら選んだ逆境の道


私の履歴書50代東京編
(前回記事)『東京転勤・半地下生活の始まり』  2017/9/2(土)


東京に赴任して改めて驚いたことは、予見していたとは言え、淀川本部長の打ち出した鍋蓋組織論で、私の部署は、ガタガタ・ボロボロになっていました。

私の部署の席には、私と向島係長の二人だけ。大半は、支所要員として抜かれてしまった。それもこの係長は産業機器担当であるから私の管轄外なのです。

無理もない。かって私の部署を東西に分割して、東は子会社の新宿増田社(仮称)の町田専務が本社の部長となり受け持ち、私が西日本を担当するようにとの太秦社長の指示に反し、町田部長は企業向け機器を、私は医療業界向け機器を担当すると二人で決めたのです。

何故かというと、医療関係分野は、一般企業向けの営業と違い、提案する機器が他社比較で飛び抜けて高機能で安価でない限り、医療関係者との癒着なしには成果をあげることが出来ないのであり、と同時に、機器の改良や新製品開発に現場を多く踏んでおく必要があったからです。その点、町田部長にとって、全く未知の分野でした。

更に、私がこの事業部を引き継ぐ前から、太秦社長が直々にスカウトした私より8歳年上の者を医療業界対象の課長に据えていたのですが、その者を私の新年度事業計画対象外にしましたから、太秦社長の心中はさぞかしご立腹どころではなかったであろうことは想像に難くないこと。

この鍋蓋組織で我が部署を解体に持ち込ませるのは寧ろ当然かもしれません。尚、何故にその年上の彼を外したかというと、彼は支所の要請に応じ、支所営業員と現場に同行訪問するのですが、彼に来てもらって逆に事態が悪化したとの報告が各地支所営業員から上がりましたし、彼にその点を問いただすも一向に変化なく、依然と支所のクレームが続いたからです。

更に更に、私の直下の部下が皆無にも拘わらず、私の数字(業績)責任は、企業向けと病院向けの両方を負うことなっていたのです。

そんな自業自得の状況でも私は素知らぬ顔で都内を始めとし全国を動き回りました。都内は主に霞ヶ関とそのOB組織、OBの再就職先への訪問です。

そして霞ヶ関ノンキャリア組で関東エリア担当として1名。東海北陸担当1名を我社へ再就職してもらいました。その後は、九州エリアでも1名。

他方、各支所の病院関連担当者(他部署との兼務)からは、現場施設の訪問都度、FAXでその顛末を報告してもらい、それに対して私はアドバイスを記入し返信。或は電話をして各施設ごとの対策を図り、時には現地に直接出かけました。

故に、私の出張中、私の机の上には毎回40枚から50枚のA4の新しいFAX報告者が届いていました。それを積み重ねておくと、1ヶ月ごと、優に10cmは超えていました。

周囲の同僚達は不思議がりました。私の机の上に30cm弱に積まれまヽの1千枚前後のFAX報告書の中から、都度必要な書類はどの位置にあるのか、そして数字を含めて何が書かれているのかを思い出すことが出来、その報告書を素早く引っ張り出すことが出来たのです。

淀川本部長は、私の部署の補充要員として、二〇歳代後半の中途採用男子一名と、6月には研修を終えた新卒二名を配置しました。処が、新卒の一名が三日で辞表を出しました。彼の言うには、公務員になりたいものの、採用試験に通らず。㈱ウズマサで働きながら試験勉強をしようと思っていましたが、試験勉強は到底無理なようだからというものでした。

残る中途採用一名と新卒一名は驚く程仕事に前向きで、教えたことは直ぐに実践できました。だから、間もなく、彼らを支所応援として出張させることが出来ましたし、東京ビックサイトで毎年開かれる展示会の説明要員として見事にその役割を果たしてくれました。

その中途採用の彼は、今、私が住んでいる大阪府島本町にある府立島本高校から京都の私立大学を卒業していましたし、もう一人の新卒の彼の場合は、東海出身で名古屋の私立大学の卒業でした。

二人共、頭が柔らかかったですね。



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