ランチェスター戦略での秋田県人論

私の履歴書40代本社編

BB営業部淀川部長が取締役営業本部長に就任し、その後任として同じくBB営業部の細田課長(仮称)が部長に昇進した。

ここで奇遇なのは、淀川営業本部長も含め、営業本部4人の部長の内、店装部の畑中部長(仮称)を除く私を含めての3人が秋田県出身である。関西企業では特筆すべき大事件のようなものだ。

かって、ランチェスター戦略を日本に持込み、独自の理論を打ち出した田岡信夫氏が昭和49年と昭和50年の二度、我社に招かれての講演で話したこのと一つに、秋田県人は企業マンとして不適格であるとしていた。その根本原因は、秋田県人は時間にルーズだからであると何度か絶叫していたのである。

参考)ランチェスター戦略について

関西人に対してのリップサービスだったかもしれないが、私にとっては屈辱的なものであった。尚、この当時、㈱ウズマサの全社員の中で、秋田県人は私一人だけであったのだ。

それから17年後、私が札幌から本社営業企画課に就任以降、田岡信夫氏は既に亡くなり、その後継組織でもあるランチェスター戦略研究所主催の各エリア毎の戦略のセミナーに三度参加したことがあるが、その折、「田岡信夫氏は我社に講演に来て『秋田県人は企業人には不向きだ』と唱えていたが、それを今でも正論と思っているのか」と尋ねたことがある。研究所長は、「それは田岡の勇み足」と答えるだけだった。

そもそも日本人は、電車が世界でも有数の時刻表通りに運行されているように、今でこそ時間厳守ではあるが、江戸時代までは時間という概念が違っていた。

産業の主は農業であり、夜が明けると田んぼや畑に出かけ、日が暮れるまで働く。つまり、草木も眠る丑三つどきとかの時刻を表す言葉はあるが、それはそれ。時の概念はお天と様次第で日々刻々変わるのである。

当時の西洋人に言わせたら、日本人は世界でも稀有な時間にルーズな民族であると。そこで明治維新新政府が西洋に追いつくべしとしで打ち出したのが時間厳守であり、このことが慣習となって今日に至るだけのことである。秋田県では時間という概念が弱いということは、
県全体が稲作の農耕社会とも言える

但し、秋田県には偉い者だけに許される特有の秋田時間というものがあることは確かだ。例えば、宴会の場合、偉い者は必ず10分から30分遅れて来る。

その理由は、御前会議のしきたりの伝統で、下層の者や庶民たちが全員揃ってから高貴な招待客を呼びに行くから、どうしても宴会の開始時間が遅れること。或いは、偉い者ほど多忙なのにわざわざ出席するのだから、遅れてもやむを得ないということからくる。

もう一つは、「やばち」と称して、時間通りに出席し、お膳の料理を食べることは、がつついている(食べ物に卑しい)と思われるから、偉い者はわざわざ遅れていくのである。それが一種のステータスでもあった。


田岡信夫氏の見落としている点は、下層の者や庶民は、定刻通りに会場で列席していることである。偉い人が席についてしまってから顔を出すと、大変失礼なことで周囲から睨まれる。故に、皆がお互い遅れまいとし、知り合い同士が声を掛け合い、連れ立って参列する。換言すれば、秋田県人は時間に厳格であると言える。

彼の冷静な戦略思考からは考えられない「秋田県人論」である。恐らく、田岡信夫氏にとって、秋田での講演の際、相当カチンと頭にきたことがあったに違いない。

今では想像するしかないが、例えば、彼は講演者として控室に入り待機していたが、呼びに来たのが定刻より10分~20分遅れてであろう。更に彼は壇上で講演の開始を待たされた可能性もある。それは、彼を講演で呼んだ組織や聴講者たちにとって、彼よりも重要である人物が更に遅れてきたからであろう。

人の感情とは、何ともしがたい魔物だ。




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