『社長の怒号・罵倒から胃袋を守る』


この記事を現役の皆さんには是非一読して欲しいものです。
参考になることが、このくだらん記事中に必ずあるはずですから。


私の履歴書 40歳代本社編

『社長の怒号・罵倒から胃袋を守る』 

≪老人福祉施設の市場報告での激怒≫

私が部長心得に就任してから間もなく、部長会の席上、病院・老人福祉業界の市場の変化というテーマで発表したときのことです。

この当時、病院数は全国に約1万2千あり、諸資料を見ると厚生省の方針として病院を8千程までに減らす方向でした。主な原因は、治っても帰宅先の無い、或いは、治っても寝たきりで家族が引き取れない帰宅難民です。

代わって、それまでの市町村や日赤が運営主体であった特別養護老人ホーム等の老人福祉施設の今後の大半の新設を、社会福祉法人にした民間に委ねる意向で、それらの新規施設に対し、次年度以降、厚生省が施設整備の補助金を出すというものでした。

初夏、この情報を載せたのがほんの一部の新聞で、それも、虫眼鏡で見ないと分からんほどのスペースでした。

そこで私は、更にこれを調べ、厚生省の予算額と一施設あたりの平均補助金から次年度の補助対象新規施設数を割り出し、その部長会で、『民間の参入で老人福祉施設新築の市場は次年度以降、3倍以上に拡大する』と発表したのです。

処が、とんでもない事態に陥りました。
特別養護老人ホームなどは市町村しか造れないのに、民間が造れるとは何ということを言うのだ。部長にもなって、こんなことが分からんのか!」と太秦社長は烈火のごとく怒り出したのです。

確かにそうです。その年までの老人福祉施設の建設主は、データによると市町村か日赤でした。それも建設数は毎年50~70施設にすぎません。

私 「厚生省の方針が」と、言いいかけたとたん、遮られました。
それから1時間ほど、太秦社長による延々と私批判が繰り広げられました。

以降の毎月の定例部長会では同様な私誹謗が繰り広げられました。
この現象は、その7~8年前の、1985年に私が子会社の常務になった時と同じでした。この時は、それまでのメンテナンス子会社6社の月例役員会は毎回40分前後で終わっていたのが、私が加わったとたん、40分が3~4時間になったのです。無論、この延長も太秦社長による私誹謗に要した時間です。

それ程までに私を否定するなら、何故に私を部長にしたのでしょうか。
不思議でしたね。
それにいつの間にか心得がとれるのです。

≪官公庁営業のレポートでの激怒≫

それから数ヶ月後の夏だったと思います。
『短期、新しい顧客の創造ー官公庁ー』というテーマでレポートの提出を命じられました。

自社の営業シフト並びに営業マン育成シナリオは、小売店対象であり、更に新卒でもこの分野に足を突っ込んだ場合、それまでに会社が培ってきた顧客相手ですから、一種のルーチンワークをこなす、それもさぼりながらでも自動的に労せずある程度の実績を上げることが可能でした。

このようなぬるま湯で育った営業マンには、開発の苦しみや成功の喜びの体験はなく、それに営業戦略教育を受けておらず、その知識も無論の事、他業界の知識もないことから、イロハから教えなければならないのです。例へそうしたとしても『短期』というもう一つの命題はクリアできないのです。

そこで私は、会社が何十億円という利益を出している今こそ、その利益の一部を使って一気に新しい営業シフトを創るべしとしました。

それは、各省庁と各都道府県のOBを合計で70人雇用する案です。
そして、雇用したOBの力で完全に軌道に乗せるのに要する時間は5年。
何しろ、相手があることだし、一気には雇用できないですから。

無論、営業展開方法やそれに随行することによる公官庁営業マンの育成、各年度における人件費などの必要経費・受注の予測数字・粗利益なども付記して。

私にしては満足できる内容に仕上がりました。
各省庁や各都道府県の裏事情は皆違い、夫々の裏事情を知る事なくして、次の手を打てないからです。これを実践したら、わが社は素晴らしい企業となると確信したのです。尚、この提出したレポートに関しての質問などは皆無でした。

そして次の月例部長会を迎えました。
開始早々、罵声が飛びました。
罵声主は太秦社長。
無論、罵声の対象は私です。

「水無瀬部長はとんでもないことを言っている。なんとういうレポートだ!」 
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以降、延々と私誹謗が続きました。
私は、いつあの透明なガラスの灰皿が飛んでくるのかひやひやものでした。

以降、部長職在任中の6年間の月例会議では、大なり小なりこんな調子で推移しました。

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私と同様に、と言ってもせいぜい私の5分の1ほどの罵声ですが、社長の姻戚で、毎年祇園舞妓・芸子うちわが届く営業本部設計部・昭光部長(仮称)の場合、長髪なのですが、くっきりと円形脱毛が何ヶ所も出来ていました。それも脱毛の位置が変わるんですね。時々。

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1996年頃にBB営業部部長に昇進した大森君(仮称)の場合は、数度部長会に出席してから胃潰瘍で入院しましたから推して知るべしですね。まさにサンドバック状態ですから、胃が持たないんです。

私の場合は、一種のトラウマになりました。
とにもかくにも社長主催の部長会では物がスムーズに言えないというよりも言いたくないんです。

言ったら次に烈火のごとくの罵声と揚げ足が返ってきますから、口が自然と動かなくなる。反論は出来るのですが、皆の前で反論したら社長の体面を汚すと思うと、これまた言うに言えない。

それが半年も続くと、部長会に同席の役員や同僚部長の皆さんは、私がすっかり社長に怖気(おじけ)づいていると思ったようです。処が私、社長室で社長と二人きりになると社長に思うことを何の躊躇もなく話すんです。然も、流ちょうに。ですから、寧ろ社長の方が私と二人きりになるのを避けましたね。皆さん、それを知らない。

≪怒号・罵声対策≫
私が社長に最もやられたのに、どうして心身共に健在かというと実は私なりの対策があったのです。

一つ目の私が実践したことは、部長会で会議室に入り着席したとき、次に社長が入室した時、社長の怒号・罵声を発生中は何度もです。それは、下腹に力を込め息を止めて『ウッ! ウッ!』と声を出さずに唸(うな)るんです。つまり、胃に穴を開ける異常な分泌物を発しようとする胃袋を、この唸りで正常に戻すのです。これは我ながら良策でした。

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二つ目は、部長会の席上で反論したくなるのをどう抑えたかです。
それは前夜飲んで何時に帰宅しようが、それから任天堂ファミコンで『信長の野望』のゲームをしました。それも度々徹夜で。それから出社です。

これで私の闘争心は疲労で萎えて、反論する気にもならない。会議へのトラウマもありますが、二日酔いに睡眠不足で臨むのですから、ろれつが上手く回らないことが時々ありましたね。でも、それ故に、社長の罵声や怒号は社長が期待する程は私に響かない。

1996年の初夏以降は、徹夜してから会議に臨むケースが変わりました。
部長会が毎月休日の第一土曜日となったからです。
この頃は、東京に転勤していました。

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前日の金曜日の午後1時には、東京事務所の近所の店で競馬予想紙競馬ブック関東版』を購入。夕方、新幹線に乗る前に、有楽町の売店で『競馬ブック関西版』を購入する。それから新幹線車中で缶ビールを飲み、蛍光ペンを持ちながら各レースの予想をする。何しろ、東西二カ所の競馬場の計24レースの検討ですから、二時間半で終わるはずはない。大阪の自宅で検討を継続するも終わって就寝するのは午前3時~4時頃。それから3~4時間ほど一眠りしてから京都本社へ出社。

話はここで終わらない。

当時の競馬の投票(賭け)開始時間が午前9時。
 つまり、会議が始まる時刻だ。
1レース目出走が午前10時前後。
ということは、会議中に投票しなければならない。

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午前9時に会議が始まると、直ぐに小さく折りたたんだ競馬ブックを膝に置き、各レースごとチェックが入った馬番を携帯電話につないだモバイルメイト(5万2千円)で打ち込む。午前中の二つの競馬場分ですから計12レース。私の報告の順番までは打ち込みは完了できました。これが終わってやれやれ。あとは野となれ山となれの心境でした。

このようなことを不謹慎とお思いの方が多いでしょうが、サラリーマンは身体を壊したらお仕舞い。子供が成人になるまでは病気になるわけには行きませんでしたから。

   ☆   ☆   ☆

改めて付記するならば、社長の罵倒に価値がありました。

私が子会社の常務時代(註1)のこと、この子会社の青葉社長(仮称)は太秦社長とは若き時からのお友達で㈱ウズマサの福岡支店長兼務でした。それに私の30歳代前半の東京支店勤務時代の支店長で、30歳代後半の営業本部係長時代は私の所属する部署の部長でした。この東京支店時代(註2)で冷遇された私は、子会社の常務時代、青葉社長を遠ざけ、独断と偏見で子会社の経営をしたのです。。

当時、この私のやり方を結果的に支えたのが太秦社長の私への怒号と罵倒でした。ウズマサ社長の罵声に応えるべく、思い切ったことが出来たのです。

他方、営業本部の部長職の場合は、営業現場を動かすのには、支店長経由となりますから、全支店長は、BB営業部門の商品と違って今日明日に即実績があがらない我が部署の商品の販売には力が入らない。故に子会社時代のようにはいかない。私が直接指示や要請が出来たのは、我が営業部員と、新商品開発や改良・生産ロットなどで頻繁に打ち合わせをする設計と工場、それに同機能を有する子会社でした。

私が製造工場の長を飛び越し、新商品開発や製品改良に取り組めたのは、太秦社長の罵声が背景にあったからこそであることは間違いないですね。



(参考)
老人ホームの種類別にみた施設数・定員・入所者数(~1996)

(画像借入先)
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