特許を取得した機器の開発苦闘


私の履歴書・40代本社編

『特許を取得した機器の開発苦闘』

部長就任直後に着手したもう一つの製品があります。それはHM課(氷見課長59歳)の対象とする新顧客層向けの新しい業務用機器開発です。

その開発する顧客層とは、ケータリング(註1)、受託給食企業、病院、老人施設や福祉施設です。

(註1)ケータリング(英: catering)とは、顧客の指定する元に出向いて食事を配膳、提供するサービス業のこと。

従来、輸入品ではあるが、厨房で配膳されたトレー(お盆)を乗せて運ぶコンプレッサー内臓のカート(運搬車)がありました。

㈱ウズマサでは、三菱重工製コンプレッサーを使い、それを模したカートを製造していました。その販売先は、ある大手のケータリング業者(以下K業者と称す)の紹介や情報によるK業者の給食受託先施設でした。

この販売方法には限界がありました。施設側が他のメーカーを指定したらK業者としてはそれに従わざるを得ない。つまり、㈱ウズマサが直接施設側に販売活動をしないことには、販売台数は伸びないのです。

然し、㈱ウズマサの全国に配置している営業マンはBB営業部管轄で、然も、小売店相手であり、企業や施設相手の営業などは全く出来ないのです。

それではどうするか。
我が部署内で何度も会議を開き、討議を重ねました。

結論は、社内の営業員に頼ることなく、営業活動をしなくても黙っていても施設側が望む商品の開発です。それは一体何か?

病院や福祉施設の場合、厨房で一人分毎トレイ(お膳)の上にご飯やみそ汁をセットし、それらを手押しカートや滑車付き冷蔵保温庫で病室等に運ぶ。

厨房では一度に数百人分の食事を作り配膳するから、普通のカートで運ぶ場合、ご飯やみそ汁は冷えてしまい、或いは冷蔵保温庫の場合は当然冷たい食事となる。

保温庫と冷蔵庫を並列したカートもありましたが、それでは、厨房でも配膳でも二重手間となってしまいます。

結論は、一枚のトレー(お膳)にご飯とみそ汁と冷ややっこを乗せ、夫々がその温度を保った状態で患者や施設入居者に提供する機能付きカートの開発です。

早速、設計課にその旨依頼するも、回答は実にあっさりと出ました。
「そんなの出来る訳がない」

それじゃ我が部署でその構造を考え出そうと再々あぁだこうだの検討。
それを設計課に持ち込んだら、「無理だ」との設計の伊田課長の回答。

私 「出来ない、無理とは何事か。出来るように設計するのが君たちの仕事じゃないのか」と絶叫。会議室用テーブルを拳で思い切り叩いたら、アルミの灰皿が30cmは飛び上がり、吸い殻や灰が飛び散りました。

その後、私の絶叫とこのアルミの灰皿の飛び跳ねを何度か繰り返した後、ようやく設計に着手することとなりました。

設計課の連中ではこの構造をうまく設計できないと言うので、設計課の伊田課長とその部下と、こちらでは私と配下のHM課氷見課長と山田主任の五人で試行錯誤を繰り返しました。

そして数ヶ月後、機能的な部分のみ、木造の試作までもっていくことができました。
然し、またまた彼らの言う「無理だ」が始まりました。

部材として使うプラスチックの問題です。
例えばトレー(お膳)に使う樹脂の種類です。

トレーの半分を冷やし、残る半分は過熱するその温度差は60℃前後。果たして毎日三食三回365日の繰り返しで反ったり割れたりせず耐えられる材質は何か。

更に、材質によってはトレーが重すぎ、配膳する施設の職員にとっては過負荷。
プラスチック専門業者にあれやこれやと聞くも明確な回答はありません。

更に更に、トレーの鋳型を作りトレー業者に試作させようとするも、プラスチックのチップ(パウダー)の購入は1トン単位。簡単に試作できるものではありません。

問題はこれだけではなかったのです。
移動を楽にするためにカート全体の重量をどう軽減するかです。

そして原価計算です。開発費を除いて製造原価は実販売価格の30%以下に抑えなければなりません。

   ☆   ☆   ☆

ようやく試作機まで漕ぎつけ、更に改良を加えて量産品とし、新聞記者発表し、市場に公開した時は、嬉しいというより、ほっとした気分でもあり、疲れがドッと出ましたね。

何せ、この開発での私の絶叫と会議室用テーブルの上のアルミの灰皿は、少なくとも20回以上は跳ね上がりましたからね。

その後、この機器の構造で特許を取れたことは言うまでもありません。
その特許状の開発技術者の名前は㈱ウズマサ設計課伊田課長。

尚、私の前任でもあり製造部長でもある男山部長は、たった一度もこの開発に関する会議等に出席することはありませんでした。つまり、男山部長の預かり知らぬところで開発は行われたことになっていたのです。

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またまた全国紙や業界紙の記者が取材で押しかけ太秦社長と面談しました。

太秦社長の紙上での言葉とは、またまた同じ。
「あれは私(太秦社長)が考案し、作らせたものです」

   ☆   ☆   ☆

それから3年後、私のある決断と行動に感銘した彼ら設計課の連中や工場の連中が私と会う都度すれ違う都度、私に言う言葉とは。

「水無瀬部長、是非、私たちの上司になって下さい。製造部長になって下さい。」
然し、この状況が男の嫉妬をかうことになるのです。

   ☆   ☆   ☆

この男の嫉妬の話は、この本社編の次の東京編で書きます。



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