私の履歴書:部長心得就任と部署内の反発


私の履歴書40歳代本社編
部長心得就任と部署内の反発

1991年2月から本社営業企画課長として満3年経過した1994年1月、吉田専務室に呼ばれ、突然『本社営業本部産機営業部(以下IM部と称す)・部長心得』を言い渡された。内示もなく突然である。48歳の時である。

会社は、全国的にはバブルがはじけたといえ、この年度の純利益は78億円、次年度は140億円強をはじき出していた。

このIM部は簡略に言えば、自社のこれまでの顧客層は小売店主体であったが、新しい産業機器の開発で新しい顧客層を構築しようとするものである。無論、前任者が着手し、飲食業界や病院業界への足場を構築中であった。

販売ネットとしては、BB営業部の敷いた全国67ヶ所の支店・営業所と、傘下にいずれも東京を拠点とする二つの子会社(仮称:AB社・NY社)(註1)である。それに機器開発と製造工場を兼ねる静岡の子会社三島社(仮称)である。

(註1)AB社については、私の履歴書No.124 《上司の罠(わな)》^^^^^我が社のライバルK社の販社がAS社を紹介。AS社で粗利益一億円の契約成立も・・・。
私の履歴書No.124 『上司の罠(わな)』 2009/2/25(水) 
私の履歴書 『超赤字会社が一転、超優良企業へ』 2016/8/26(金) 


営業本部IM部の構成は、書籍・出版業界を対象とするBM課(課長横峰51歳)、飲食業界を対象とするTM課(課長小倉44歳)、病院を対象とするHM課(課長氷見59歳)の三つの課で、夫々に課長と数名の一般社員を抱え、総員14名の構成であった。

部長心得となって最初の仕事は、新たな部署コンセプトの創造とそれに基づく方針と新年度を含む5ヶ年事業計画である。次が前任者男山部長の批判レポートの作成である。

私は前任者はこの部署の初代部長であり、ここまでたどり着くには大変な努力をしただろうし、彼の意向を踏まえ、寧ろそれを発展させる立場をとりたい旨のレポートを提出した。

吉田専務はそれでは不満で、「前任者との方針の違いをレポートせよ」との指示に出た。私は已む無くその相違と事由をレポートした。

これが罠だった。吉田専務は私のレポートを私の前任者男山部長批判として太秦社長主催の部長会の席上で読み上げた。

いかにも京都人らしいやりかたである。
三国志曹操が使った『二虎競食の計』である。

前任者男山部長は親分肌で部下に結構慕われていたから、引き継いだ部下たちからは私への反発心であろう冷たい視線を感じざるをえなかった。

然し、それで躊躇しているわけにはいかなかった。引き継いだ我が部署BM課管轄の子会社AB社は衰退期の機器しかなく、累積赤字は一億円前後に膨れていた。

赤字の原因は、ライバル社の大量生産による販売価格の下落である。
先ず取り組んだのは、そのAB社向けの新商品の開発である。

小会議室でBM課のメンバーを集め、これまでの本社工場へのBM課の製造依頼したAB社向けの生産台数と在庫状況、それに他社から依頼の生産状況を確認。

そこで私は、AB社の販売台数の落ち込みは、単にライバル社の大量生産だけでなく、AB社向けの機器は、商品のライフサイクルから言えば、成熟期を過ぎ、完全に衰退期のスパイラルに入っていると判断した。

この商品はこのまま衰退してしまうのか。それともこの衰退は一時的なものであるプラトー現象(註2)とすることは可能なのか

(註2)『プラトー現象』(Plateau phenomenon高原現象)の画像イメージとしては、長野の菅平や駅のプラットホームである。
流通している機器はいずれ飽和点(ピーク)を迎え販売数量は頭打ち(プラトー現象)となり、やがて衰退期を迎え売れなくなる。この機器が更に売れ続ける条件は、低価格か或いは新機能の付加によるか、新たな用途の提案かである。
『あなたのご意見が通る為の条件』  2015/2/13(金)
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AB社の業績回復には、AB社の持つ顧客層への全く新らたな商品の提案なのだが、それには多大な時間と開発コストが要る。短期間で然も低コストでできることとは、既存の機器への新機能の付加である。

BM課員の報告の中で、『おや?』と思ったことがあった。他社から依頼を受けている中で、会員に発行している磁気カード読み取り装置を内蔵した機器の開発と生産である。

私は、前職の営業企画課長時代、営業本部設計部署の取り組んでいる、今ではコンビニやスーパーでも使用しているPOSレジの開発状況を見聞きしていた。

彼らは、試作機のPOSレジが途中で止まると、バグ探しのために、ソフトを印字した何百枚もの紙を空き部屋や時には数千枚もの祇を講堂一面に広げ、一文字一文字点検作業をしていたのである。

その彼らが京都府下のある企業が飲食店向けに開発した鉛筆でチェックしたカード読み取り装置(註3)付きのレジを扱っていることを思い出した。

(註3)今の鉛筆で書いた文字読み取り装置は、武蔵が制作した選挙投票用紙に鉛筆で記入された人名文字読み取りにも使われている。

そして私はこの読み取り装置を応用し、更に複雑な白黒カードと画像を読み取る装置(註4)を開発し、AB社向けの既存の機器に内蔵したらどうかと皆に提案した。1991年のことだから25年前のことである。

(註4)バーコードやQRコードの読み取り装置の前世代と言える

処が思わぬことが起きた。課員全員が猛反対する。それは、今、受託生産をしている会員磁気カード読み取り装置に抵触するからというのが反対の理由であった。然も、依頼先は、この機器のシステムを特許申請していた。

然し、この案以上の案は課員から出てこない。
そこで私は、私の提案を遂行すべく、一つ目として、受託生産機器とは対象の業界が違う。二つ目、読み取る方式が違うことを理由として単独で走ることにした。

私は先ず静岡の三島社に開発費用と試作機の制作費用、量産における原価の概算をはじいてもらった。

処が、これらの費用を新年度の開発予算に計上していない。
他の予算を削って回すだけでは届かぬ額であった。

吉田専務に相談したが、恐らく横峯課長の手が回っていたのかもしれない。
あっさりと新たな予算獲得は断られた。

然し、吉田専務は最後にこう言った。
「AB社に開発費を負担させたらいい」
私 「エェ? あの超赤字会社に? どこから金が出る?」

暫し沈黙後、私は言った。
「分かりました、AB社に開発費を出させます。」
そう言って専務室を出た。

早速、AB社担当の北村主任を捕まえて、AB社に新商品の提案とその開発費はAB社の負担となる旨を伝えるように要請した。

彼はほぼ毎週のように東京に出張し、AB社の羽田社長と面談していた。
私は彼が東京に出張する都度、AB社に提案するように何度も要請し続けた。

然し依然と無視される。これではらちがあかない。BM課の横峯課長と担当の北村主任をほっといて、私単独でAB社の羽田社長に会うしかない。

私は翌日の夕方東京入りし、翌々日の午後一番のアポイトメントをとり、AB社の羽田社長と面談することにした。

東京に入った夕方、会社が投資している新宿のビジネスホテルにチェックインし、外で夕食を済ませた後、ホテルの廊下を歩行中、偶然にも北村主任と遭遇。

私は言った。
「明日の午後、私はAB社の羽田社長と会い、新商品の提案をする。もしも君が明日、AB社に行くなら、午前中に君から提案をしていて欲しい。君があくまでも提案を拒否し、私が提案することになると、いいかい、AB社からみた君は、なんの存在価値もない男となるのだよ」

彼の返答はいつものように無かった。
相変わらずしかめっ面で私を見つめるだけ。

私はそれから自室のドアを開けベッドに潜り込んだ。果たして明日の彼はAB社の羽田社長に私の提案をどう伝えるのか、それとも伝えないのか。

それはどうでもいいことだ。彼の午前中のAB社の社長との面談は吉と出ようが凶と出ようが関係ない。いつものことだが、直ぐに眠ってしまった。

                   つづく


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