差別なき日韓併合時代と満州国


今日、二回目の更新記事です。



今日、日韓併合時代、大日本帝国臣民として、朝鮮人は差別されていなかったという記事を見て、当時の満州国のことを思い出したね。



大日本帝国時代、朝鮮人は差別されていなかった?=韓国ネット「デタラメだ」「うちの祖母は日本が大好き…」 Record China 3月23日(月)

2015年3月22日、韓国のインターネット掲示板にこのほど、「大日本帝国時代、日本人は寛大だった」と題するスレッドが立った。

イメージ 1

スレッドを立てたユーザーは、1930年代に三越京城支店の高級カフェで撮影されたという写真を掲載。写真の左側には黒いスーツ姿の人たちがお茶する様子が写っており、右側にはチョゴリ(韓国・朝鮮の民族衣装)姿の人たちがお茶する様子が写っている。

この写真について、スレッド主は「左側が日本人で、右側が朝鮮人だ。これを見て何か感じないだろうか?驚くことに、 大日本帝国時代、日本人は朝鮮人を差別していなかったということだ。

当時、高級カフェや列車、レストラン、学校など、どこに行っても朝鮮人は差別されなかった。貧しい日本人よりも金持ちの朝鮮人の方が良い暮らしができた」と書き込んでいる。

この書き込みに、ほかのネットユーザーは以下のようなコメントを寄せている。

「デタラメを言うな」
「良い暮らしができたのは日本の協力者だけでしょ」

「普通の市民に対しては寛大だったと聞いたことがある」
「当時の親日派は裕福な生活をしていた。それを考えると、スレッド主の意見も一理ある」

「うちの祖母は日本統治時代を経験したけど、今では日本大好き」
「ほかの国に比べれば差別は少なかったかもね。だからといって、差別がなかったとは言えないだろう」

「日本に敵対心はないが、日本帝国時代を美化することは間違っている」
「比べるなら、貧乏な朝鮮人と貧乏な日本人を比べるべきでしょ」

「当時は朝鮮という国の存在を知らない人も多かったらしい」
「この写真は本物か?日本人は昔から捏造(ねつぞう)していたんじゃない?」(翻訳・編集/堂本)



当時の満州国とは

イメージ 2


金文学氏(註1)の著書より引用。

註1 金文学(きん・ぶんがく)氏の略歴。

 1962年、中国瀋陽市で韓国系3世として生まれる。生まれと環境から、外では中国語、家では韓国語で両国語を完璧にできる。

中国の大学で日本文学科卒業、1991年来日、日本で大学の講師をつとめ、専攻は比較文化、および文化人類学日中韓の三カ国語を自由にあやつることができ、三カ国語の著書は30冊をこえる。

(中略)
《わたしは、1997年から数年間、学術論文のため、満州映画を中心に、東北の長春などで聞き込み調査を行ったことがあります。

また、満州国崩壊後ソ連軍によって持ち去られた満映のフィルム300巻を丹念にチェックしましたが、それらの映像は、満州国の繁栄振りを雄弁に物語っていました。

中国でも、日本でも、満映のフィルムを見た人は数少ないと思われますが、このフィルムに映された満州を見る限り、「略奪」や「搾取」「地獄」のイメージを読み取ることはできなかったのです。

 わたしの聞き込み調査の中で、大変驚いた証言が返ってきました。当時満州国で暮らした多くの人々は、実体験を交えながら、こう語りました。

「現在の共産党時代は国民党時代より劣り、国民党時代は日本の満州国時代より劣る」

「もしも満州国がそのまま維持されたならば、現在のようなみじめなことはなかった。日本みたいに発展したはずだ」

 満州映画製作所で働いていたZ氏は、「日本人は残虐だ、悪人だと言うけれど、わたしはそんな日本人には会ったことはない。われわれは仲良くやりましたよ」と回想しています。》
反日に狂う中国、友好におもねる日本」金文学著。

《私は何回も満州でフィールドワークをしていますが、満州国時代を経験した老人たちは、「日本人があのままずっと統治しつづけていたら、満州は日本並みの近代国家になっただろう。その後、共産党に支配されたことが不幸だった」と言っていました。

イメージ 4

イメージ 5

 実際、日本が満州で行ったインフラの整備は素晴らしいものでした。中でも特筆すべきは、当時の日本にもなかった「アジア号」という世界一の超特急ですね。》「中国国定教科書」(金文学・井沢元彦共著)金文学著述分より。




(参考)

1)満州写真館 特急あじ
イメージ 3

あじあ」大連駅にて
満鉄の旅客の象徴でもある特急あじあ号
これは昭和9年11月に営業運転を開始した特急列車です。

最初は満州の南端、港町でもある大連を起点に、満州国首都の新京までを繋ぎました。
さらに昭和10年には、さらに新京を越えて北の松花江からハルビンまで乗り入れました。

満州の軌道の幅(レールの幅)は日本国内よりも広く設置されています。このことからも、満鉄は思い切った設計を行うことが出来、ご覧の巨大な機関車が出来上がりました。
動輪の直径だけでも2メートルもあります。

営業開始時に大連で撮影された写真とのことで、当時の新聞をはじめ、様々パンフレットに用いられています。
横から見ますと、流線型の車体の外形がよくわかります。人の大きさと比べても如何に大きな車体であるかが伺えます。(以下省略)

2)満州国地図

3)満州国の当時の絵葉書

明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開



※ 以下は、日本が国力をあげて建設した満州国新都と奉天の映像です。お時間があればご覧下さい。



The capital of Manchukuo 1 of 2 / 満州国国都、新京《前編》


The capital of Manchukuo 2 of 2 / 満州国国都、新京《後編》


満州国奉天《前編》The largest city in Manchukuo 1/2


満州国奉天《後編》The largest city in Manchukuo 2/2