隠蔽されてきた会津藩蛮行の歴史


昨年の大河ドラマ”八重の桜”で同志社創立の新島襄会津藩出身妻『八重』のことが賛美されていましたね。

(参考)NHKオンデマンド『八重の桜』

ここでは会津藩が悲劇的に描かれ過ぎていると一部の人から言われるのも、会津が隠し通してきた歴史をこのドラマでは少しも触れなかったからでしょうか。

日本では「強きをくじき、弱きを助く」との言葉があるように、歴史を題材として敗者の会津をヒロインとして描かれたお涙頂戴のフィクション(小説)が、私たちの中学高校時代に習った会津藩の歴史です。

だから、今の会津史は『会津観光史学』と称され、これは捏造されたもので歴史的価値は薄いのです。

私の立場上、新島襄の妻八重が登場するお涙頂戴の小説・会津観光史学に隠された事を言うのは忍びないのですが、敢えて、プロパガンダ(政治宣伝)でいかに事実を歪曲され私たちは洗脳されているかの例として今回取り上げました。

今回取り上げたのは下記の二点です。

(1) 北海道をプロイセン(ドイツ)に売ろうとした会津藩
(2) 会津藩、並びに会津藩士の蛮行の実態 (東北の嫌われ者)

尚、世界や世間に知られたくない蛮行の歴史がある国や組織程、それを隠そうと、フィクション(小説や映画・TVドラマ)を創作し流布するのは歴史的事実です。



さて本題

(1) 北海道をプロイセン(ドイツ)に売ろうとした会津藩

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例えばその隠し事の一つに、会津藩プロイセン(ドイツ)に北海道を売ろうとしていたことですね。このことは明治以降、封印された過去です

ドイツ国立軍事文書館に保存されている戊辰戦争の最中の1868年7月31日 駐日代理公使ブラントが本国のプロイセン宰相に宛てた書簡の内容とは。

会津、庄内両藩から北海道の領地を売却したいとの相談を受けた」「この2藩の状況を考えると、間違いなく有利な条件で得ることができる」・・・と。

(注)会津藩京都守護職庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職。

会津藩は1859年に北方警備のために、幕府から蝦夷(北海道)の一部(根室紋別)を、庄内藩は同じく一部(天塩・留萌)を譲渡されていた。

会津藩庄内藩(現、山形県酒田市)は列強の協力を取り付けんと、プロイセン(ドイツ)に蝦夷地の売却まで申し出る。

然し、プロイセンの鉄血宰相「ビスマルク」は、この会津藩の申し入れを「却下」。

(参考)朝日新聞 2011年2月7日
維新期の会津庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認 
                     ☆

この北海道を手に入れることに対して、宰相ビスマルクの却下理由とは、

「外国人にはきわめて危険な日本の政治状況下で、領地取得は小規模とはいえどちらの藩のものでもこの交渉を推し進めることは推薦いたしかねる。

領地獲得は、他国の公使達にねたみ、不信感を持たれる恐れがある。同時に内戦に関わっている各藩に中立的立場を犯しうると考えられる。」

(注)プロイセン普仏戦争直前で余裕がなかった。

(参考)幻の東北列藩・プロイセン連合                  http://blog.livedoor.jp/chachachiako/archives/28769788.html

          ◆       ◆       ◆

幕末の横浜に資料が残っていました。
漫画雑誌「ジャパン・パンチ」
                   ☆

出遅れたプロイセンが選んだ相手・・・それが会津・庄内だったのです。プロイセンの狙いは、海運業保護の基盤をつくることでした。

この両者を結びつけたのが、ヘンリー・シュネル
・・・プロイセンの将軍(ジェネラル)で、会津に鉄砲の使い方などを教えていました。そして・・・ビスマルクに手紙を書いたブラントの元で働いていたのです。

1868年戊辰戦争が始まると本国に帰ると帰国願いを出しています。
しかし・・・本国には帰らずに。。。会津若松に。
会津藩は日本の妻を与え、”平松武兵衛”という名も与えました。

シュネルが頻繁に通っていたのが新潟。ここには、東北で戦う旧幕府軍に武器弾薬が陸揚げされていたからです。シュネルは・・・港に近い勝楽寺で武器の販売を行っていました。

この頃・・・アメリカでは南北戦争終結したばかりで、世界で武器弾薬が余っていました。それが日本へ流れてきていました。その数、小銃だけで70万丁とも言われています。

この時代、新しい武器が次々と登場しています。連射式銃・ミトラィユーズ、ガトリング砲・・・それらを会津に結びつけたのでした。

日本での権益拡大を思っているブラント・・・
プロイセン蝦夷地に基地の獲得を考えるべきであり、今すぐ交渉を始めるべきです。」

駐日公使ブラントによる北海道植民地化計画とは・・・
ブラントは、戊辰戦争が始まる前・・・2度にわたって北海道を調査しています。1回目は1865年9月・・・2度目は1867年8月。ゲルトナーなる人物と共に、伊能忠敬の地図でまわっています。

ブラントによると、北海道の魅力は???
蝦夷地は気候が北ヨーロッパと酷似しており、土地は広大で水は豊か、農業牧畜に適している。蝦夷地は、5000人の海兵隊により、簡単に手に入れることができる。」

しかし、海軍省は、ブラントの提案を却下します。
そこで・・・土地を開拓し、実質的に支配し始めました。

それを行ったのがゲルトナー・・・農業専門家でした。
寒冷で稲作には向かない蝦夷地・・・

ここを農業に適していると、西洋農法を初めて持ち込みました。北海道の農業の原点となります。
蝦夷地は肥沃な平地で、開墾するには容易で、農地として高い価値を持っている。」

ゲルトナーは私財で本国から色々な種を手に入れ・・・ワインも栽培。ゲルトナーが特に大切にしていたのがブナ林。故郷のドイツを思ってのことだったのでしょうか???

しかし、1869年函館戦争終結に伴い、榎本武揚の北海道共和国は5か月で消滅。

新政府は、ゲルトナーに契約解除を申し入れます。日本の一部を99年間貸し付けるのは、受け入れがたいものだったのです。

新政府から賠償金(ヨーロッパから農業関係のものを輸入したお金も足して)として6万2500ドル(約18億円)を引換にして・・・

(参考)幻の東北列藩・プロイセン連合

          ◆       ◆       ◆

会津藩の徳川本家に対しての忠節は本物か?

会津城下では、以下のようなざれ歌が領民に広まっていたことからも会津藩は徳川再興を謀るとの大義名分で、日本を制覇しようと企てていた可能性がある。

    「都見たくばここまでござれ  いまに会津が江戸になる」

          ◆       ◆       ◆

(2) 会津藩、並びに会津藩士の蛮行の実態

『10代の少年たちで結成された「白虎隊」は、会津の武士の名を汚すまいと、「自刃」して果てる。それほどに、会津の武士は誇り高く、その士風は他藩に賞賛されるほどであった。』とあるが、果たしてそうであったろうか?

会津藩士は篭城陥落後郡山や東北各地で略奪・放火など蛮行したことは、各地の歴史書に記録がある

(記録1) 2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号・英国公使館員ウィリアム=ウィリスの記述の中に会津藩士の略奪・放火などの蛮行が記録されている。長岡市の歴史書新発田市史でも然り。

(記録2) 新潟市史通史編3、小千谷市史、水原町編年史会津戊辰戦史(会津藩士著)、仙台戊辰史、などの記録にある会津藩会津藩士の蛮行

越後に侵攻した会津藩兵の目的は、会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治、そしてやがて訪れる新政府軍との対決に備える事にあった。

その為にも越後での継戦能力を得る為に、越後の民衆の支持を得るのが不可欠だった筈である。

しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。

 旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。

この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両、野田新田十八両(水原町編年史第一巻)を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。

またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である

初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどしたが(新潟市史通紙編3)、武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)」。

 金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵の取立てが行われた。

半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。

何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して、正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は、「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で、小銃を装備した新政府軍に挑まされる事になる。しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく、戦いが始まれば一目散に逃げた模様である(小千谷市史下巻)。

 会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き、身の危険を感じて故郷から脱出した。

しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が進駐して来ても留まっていたが、三月に会津藩兵の襲撃を受けて殺害されてしまう(水原町編年史第一巻)。

越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた

衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら、各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。

幕府の倒壊によって支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所はこうした行動を停止出来なかったから、民衆の恐怖と憎悪は高まった(新潟市史通史編3)」を始めとして、新政府よりの新発田藩や与板藩の城下に乗り込み、軍資金を強要する等の蛮行を行った。

尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴・略奪について「越後での略奪は会津藩士ではなく衝鋒隊が行った」との会津贔屓の主張があるが、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ会津藩の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)、会津藩士によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も会津藩兵の一部と記述されているのだから、会津藩兵と同一視するのが妥当だろう。

何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと記録しているのだから、衝鋒隊会津藩は無関係と主張する会津贔屓の主張は詭弁と言わざるを得ない。

かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる

これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を新潟町に派遣して「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による略奪を禁じたものの、「人心尚之ヲ厭ヘリ」(仙台戊辰史二巻)のように一度民衆から失った信頼を取り戻す事は出来なかった。

また年貢の減免等も行ったが(水原町編年史第一巻)、その直後に人足を徴発したりしては民衆の歓心を得る事は出来なかった。

会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は、自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。

かくして越後の民衆が助けを求めたのが、会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり、かって越後を統治した米沢藩上杉家だった。

                       ☆

米沢藩兵は多人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。

それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ新津市史通史編下巻)」。

また米沢藩兵が出兵した事をで、会津藩兵により乱された治安も回復した「この会津藩士がひきとったあと、九之助の分家新津町祐蔵から米沢出張所へこのことを報じた。

するとただちに米沢藩士十八人が槍・鉄砲持参で、とりおさえのため九之助方へ出張してきた。米沢藩はくだんの会津藩士を拘留し、水原の会津藩陣屋へ照会した(新津市史通史編下巻)」

 越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる

この農兵隊は後に米沢藩から精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる(新潟市史通史編3)。


(記録3) 会津戦争詳細年表より 会津藩士の蛮行
慶応4年 
4月28日 駒屋 守屋などで放火 
5月10日 中山村放火 
5月10日 中山村 竹ノ内村に放火 
5月31日 八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃 
6月1日 下守屋の民間を襲撃 金品強奪 
10月7日 亀ケ城に放火 

(参考)会津藩士は搾取や略奪で蛇蝎のように嫌われ、敗走時には民衆に竹槍で追われたとか。 戦の最中にも略奪とかしてたようだ。 

(記事抜粋先)
なぜ会津観光史学は史実を歪めて怨念を煽るのか?

(注)
白虎隊士中二番隊は落城を悟って切腹したとあるが、この件について記入すると長くなりすぎますので省略します。 

(その他記事参考・引用先)



私見
① 私の父母の世代では、会津と聞いただけで顔を歪めた。幕末の会津藩会津人)の蛮行は東北の農村社会の津々浦々までも口伝されていたのだ。

② 私の現役時代、代理店を介して会津若松のある公立組織と取引成立。メーカーとして挨拶訪問したのだが、相手は会津人特有の女性管理職。機器納品後がこれまた凄まじい。閉鎖社会の特徴を嫌と言う程体験させられた。



日本の近代史とは

次回は、今年のNHK大河ドラマ黒田官兵衛』で表現されている秀吉とキリスト教禁止についてのプロパガンダについて