変貌した部落


さて、今回は他の件で検索していたら、たまたま興味深い説を唱える方がいましたので、それと、それに関するウィキペディアを紹介します。



私が昭和39年(1964)春、秋田の田舎の高校を卒業し、京都の大学に入学早々、最初に驚いたのが「同和!同和!部落差別!部落差別!」と大学構内を拡声器でがなり立てている者たちの存在ですね。

田舎では「部落」と言う言葉は普通に使うし、一般の集落を意味する。小学校時代は、大人も子供も部落ごとの会合やお祭りがあった。

そういう同和とか差別とかとは無縁の幼少時代を過ごした私にとっては違和感。こんな私に「部落差別!部落差別!」と騒ぐこと自体が寧ろ差別を助長しているのではないかと思いましたね。

では京都での部落はどこ?と言うと、鴨川の七条大橋から下流の土手沿いに連なる掘っ立て小屋でした。それも住んでいるのは在日コリアンだとか。

大学の構内で叫んでいる連中の内容とは、ニュアンスがかなり違いましたね。

イメージ 1

(画像)川崎では最近まで河川敷に掘っ立て小屋があったのですね。

京都では、観光地には相応しくないということで、その当時からコンクリート5階建ての市営住宅「隣保館」をあちこちに造って掘っ立て小屋の住民を転居させました。

私が22歳前後の京都タワーが竣工した頃、木立に囲まれた一等地の岡崎に隣保館が建設され、内装も終わった竣工間近の建物の中に入りました。

確かに狭いっていう感じでしたが、私が寝起きしている夏は蒸し暑く身体中南京虫にやられ、冬はしばれるうなぎの寝床と比べたら天国で羨ましかったですね。



さて、ネットでのその興味深い説とは?


質問
江戸時代、えた・ひにんの人ははどうやって選ばれたのか?

回答者
ベストアンサー bungetsu

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、身分制度についてですが、士・農・工・商ですが、次にくるのは「非人」「穢多(えた)」の順です。

(注) 穢  [音] ワイ ・アイ ・エ よごれ。けがれ。けがれる。

で、ここで、あなたの質問に答えるとしたら、地方の成立は雑多な部分もありますので、話が長くなります。そこで、江戸および江戸時代についてのみお話をいたします。

確かに、士農工商の序列ではありましたが、実際としては、士・工・商・農、という序列が正しいと思います。

年貢(税金、または、武士の給与)確保のため、武士の次に農民が位置しましたが、士農工商で一番苦労したのは、農民でした。

まず、「非人」(ひにん)について:

元々は「人非人」あるいは「僧侶」の意味でした。つまり、人間界を捨てた「世捨て人」のことを指しました。

やがて、賎民(せんみん=貧しい人)を指すようになり、中性では「穢多」(えた)と混称されるようになってきました。

しかし、江戸時代に入ると両者は「厳密」に区別され、「非人」は良民(平民)のなり下がりとして位置づけられ、良民への復帰の道が開かれていました。

「穢多」(えた)と違っているところは、「皮細工等の生産に従わず」卑属な遊芸や物貰いの独占権を持ち、「穢多」(えた)よりも上位に位置していました。

「非人」にも2種類あり、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」とに分かれていました。

「野非人」は今日で言われる「路上生活者」。つまり、ホームレスで、主に、農村部で飢饉や病気などにより年貢が納められなくなった者が「人別帳」を離れて江戸へ流入した者たちでした。

つまり、「無宿者」と同じ考え方です。江戸でも厳しく取り締まりをし、一定の区域に住まわせたりしましたが、効果はなく、後の、「無宿狩り」などへと発展していきました。

一方、「抱非人」は、例えば、
(1)姉妹伯母姪と密通した者。
(2)男女の心中(相対死)で女が生き残った場合。
もしくは、両人とも生き残った場合。
(3)主人と下女の心中で主人が生き残った場合の主人。
(4)15歳未満で無宿の子どもが盗みをした時。

などとなっていますが、非人小屋頭が江戸の各地にあり、そこの頭の支配を受けていました。この非人組頭の頂点に「弾左衛門」という人物がおり、その支配下に「頭」と呼ばれる者が4~5人いました。

最も有名なのは、荒川土手(地名は分かってはいますが、人権に関わることなので、ここでは、あえて、荒川土手とします)に木組みと筵(むとろ)で住まいを造り、痩せた土地を開墾し、非人同士が結婚して子どもが生まれても、その子どもも非人でしかなかったのです。

まあまあ、幅を利かしていたのが「車善七」率いる人たちでした。

非人の生計としては痩せた土地から得るものは少ないので、主に「物乞い」でした。江戸時代、非人以外が「物乞い」をすると、逆に、罪になりました。

また、街角の清掃、門付(かどづけ)などの清めに関わる芸能を披露。そして、街角の清掃に付随して紙くずを拾って、それを発展させて「再生紙」造りにも寄与しました。(現代のリサイクルの先駆け?)。

さらに、町役の下役として警備や刑死者の埋葬、また、斬首の刑(首切りの刑)などでは、罪人を押さえつけたり、その後の死体処理をしたり、入牢した者が病気に罹った時の看病。少年犯罪者の世話などに従事しました。

そして、「非人」は、上記(1)~(4)などの罪で非人になっても、家族や親類縁者が、多少の「銭」を支払うことで、平民に戻れたのです。

そこへいくと、「穢多」(えた)は、「非人」よりも、さらに下位に置かれ、町民の住居からは、かけ離れた場所に、一箇所に集めて住まわされました。

その条件?としては、「非人」の中でも、さらに「素行」が悪く、「非人の秩序」を乱す者などが対象でした。しかし、支配をしていたのは、やはり、「非人組頭」の弾左衛門でした。

彼らは、例えば、死んだ牛馬を百姓から貰い受け、その肉を食い、皮は皮製品などにしました。この斃牛馬(へいぎゅうば=死んだ牛馬)の取得権は「穢多」(えた)の何よりの独占権でした。

その他にも、藁(わら)細工、燈心細工、破魔弓矢(はまゆみや)細工等簡単な手工業的生産に携わりました。

この「穢多」(えた)の歴史は、戦国時代に戦国大名から鎧(よろい)や鞍(くら)などの武器としての皮製品調達のために、当時は長史(ちょうし=村のまとめ役)に皮製品の上納を命じたことに始まる、と、されています。その見返りとしては、年貢を安くしてもらったり、とかの恩恵も与えられました。

しかし、江戸時代に入ると、「穢多」(えた)は、、「士農工商・非人・穢多」と「非人」より下位に位置づけられ戦国時代と同じような職業に従事し、一生涯「平人(ひらびと、または、ひらんど)=庶民」に戻ることはできませんでした。

こうした「非人」や「穢多」は、収入があってないようなものでしたので、租税を課せられることもなかったので、やがて、その租税免除により、幾らかでも貯えをし、土手などから、平地に土地を持つ者も出始め、大きな意味で「部落」ができました。

そして、明治4(1871)年に制定され、明治5年に編成された、いわゆる、壬申戸籍(じんしんこせき)には、「皇族」「華族」「士族」「卒」「地士」「僧」「旧神官」「尼」「平民」「新平民」「非人」「穢多」などという「階級」が書かれており、当時は、まだまだ、身分制度が色濃く残っており、しかも、誰でもがこの戸籍を閲覧することができました。

しかし、昭和43(1968)年に、差別部落の人を探し出す事件が発覚し、大企業での採用取り消し、部落民との結婚禁止などという事件が発生し、同年、「閲覧」および「公開」を禁止し「永久封印」とされました。

とは言うものの、現在に至っても、「部落名」を聞いたり、そこに代々住んでいたということで、「偏見の目」が向けられ、現在、「部落開放運動」や「同和問題」が今なおクローズアップされているのが現状です。


※ 昨今の部落差別と叫ぶ同和組織は、同和の利権団体と言われている。利権とは、例えば京都市の場合、毎年同和対策として少なくとも数十億円の予算を計上しているし、ごみ収集や市バス運転手などの採用は同和が握っている。

確かにその昔は差別された部落ではあったが、金のあるものは、部落から去ったそこに入居してきたのが在日コリアンや食い詰めた貧民である
京都の場合、部落民過半数在日コリアンと推定される


更にもう一つの説

質問
差別用語 よつ? 部落

回答者
ベストアンサー  oberonettitania

四足の動物の肉や皮の加工をしていた人たちの事ですが、「穢多非人」(えたひにん)という5番目の身分です。

動物の加工だけではなく、糞尿処理、罪人の処刑の処理、などをする身分の人たちでした。

この、「穢多非人」身分の親玉というのがいて、これを「弾左衛門」(だんざえもん)と言います。弾左衛門は浅草を拠点として、関八州のほか伊豆、駿河,甲斐、奥州まで支配権を持っていました。

穢多非人の身分でもすごい権力を持っていました。
支配下の人間の裁判権を持っていたし、芝居や歌舞伎の興業も弾左衛門の許可を必要としたのです。

初代市川団十郎が、その支配から逃れるために奉行所に願い出て後に、それが」許されたりしています。

人の嫌がる役務をする代わりに、この権限を与えられた身分なのです。江戸時代までその支配はつづきましたが、明治以降も部落は残り差別の対象となったのです。

                        ◆

回答者
granzootさん

差別用語の四つとは仏教の概念を引用したもので畜生道のことを指してるようですがつまりそうした動物を殺す職業に歴史的に従事した人を明治期に差別した時に言われた用語の一つです。

それ以前に差別用語で使われたという記録ないし伝承はないので。
明治政府は明治維新という西洋化政策の影でかなり深刻な農業政策の失敗をしています。

そのため各地で農民の叛乱が相次ぎその矛先を買える政策として「開放令」というものを発布します。

それ以前に明確に認識のなかったエタ・非人というものを注目させ学術的にも江戸時代に「士農工商」という儒学の概念から引用した階級制度をあたかもあったかのように捏造したもので何時からと言われれば明治からと言うのが真実です。

(参考)見方によっては下記のような見解もある。
「部落と言うのは徳川様から、履物屋、肉・毛皮屋、葬儀屋・・・等の独占権を与えられそれが250年続いた。明治の頃には皆ちょっとした旦那衆でした。」



(※)上記とはニュアンスが違いますが下記の意見もあります。

職場の会議で「研修」の時間がありビデオを見せられた同和問題

(一部抜粋)
部落出身ってそこが部落だって大宣伝かましているのは、当の部落民達であって大都市の人間なんか誰も気にして無いべ。

だって、私なんて「部落」なんぞ研修やるまでそんなもんすら知らんかった。大宣伝しなきゃ知らない分からない。

そして、そのままそんな存在自体消えるって事なのにね。わざわざ大宣伝して昭和のビデオまで担ぎだしてイベントやるなんてさ。

部落が無くなると困る「同和利権」で儲けている部落民達がいるって事だべさね。

そう言えば、部落代表の三代前が朝鮮半島密入国者の子孫小和田家も雅子の素性調査が入った時も、部落解放同盟宮内庁に抗議したっけね。

「調べんな」って
なんでだろねw




(参考)
以下はウィキペディア 「部落の起源論争」部落問題」より一部抜粋


 被差別部落の居住者は先祖代々同じ血筋で固定されたものと考えられることが多いが、これは間違いで、歴史的には被差別部落で財をなし成功した者が被差別部落の外へ流出すると同時に、

被差別部落の外で食い詰めた犯罪人や無職者が生活費の安い被差別部落の中へ流入することが繰り返されてきた

京都市内のある部落では、京都部落史研究所の調査の結果、半数を超える「部落民」が部落外からの流入者と判明したこともある。

1937年に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った「京都市における不良住宅地区調査」では、「部落民」のほぼ半数が外部からの流入者と特定された。

また、植民地時代の朝鮮半島から内地に渡った朝鮮人被差別部落に住み着いた例も多く、日本の総人口に在日コリアンが占める割合は1パーセントに満たないところ、

大阪市のある同和地区では住民の13.8パーセントを在日コリアンが占めている。ただし、同和地区内に住む外国人は属地属人主義により同和事業の対象とはならない。

また、部落解放同盟同和会が同和予算を行政から獲得するため、同特法のいう「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」(被差別部落)が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある(このような地区は「えせ同和地区」と呼ばれる)。

1976年7月には、もともと被差別部落が存在しない宮崎県児湯郡都農町同和会が結成され、これに伴って同和会都農町の一部を同和地区指定させ、支部助成金など同和予算495万円の計上を約束させた。

宮崎県では9市9町に36カ所の同和地区が指定されることとなったが、全解連書記長の村尻勝信によると、その3分の1は「えせ同和地区」であるという。

大分県でも同和予算目当ての「でっち上げ同和地区」「ニセ同和地区」の存在が報告されている。

東京都では、自称部落民が部落差別と無関係の傷痕を「被差別部落に生まれたために虐められた痕跡」と偽って同和対策事業の個人給付を申請したケースも報告されている。

また、同じ東京都では、ある団体の168人の自称部落民から生業資金貸付申請があったが、最終的に部落民と認められたのは2人だけだったこともある。


同和事業に関わる不正・腐敗

同和対策事業の伸展に伴い、同和地区の環境改善は画期的に進んだが、巨額の予算の執行に伴い、それに関わった行政当局者、運動団体関係者による不正・汚職行為が少なからず発生し、マスコミを賑わせることがたびたびあった。

とりわけ1981年(昭和56年)の北九州土地転がし事件、2001年(平成13年)に表面化したモード・アバンセ事件、2006年(平成18年)に発覚した飛鳥会事件や奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件、八尾市入札妨害恐喝事件など、運動団体の幹部と行政の癒着が報道されている。(その他事例は省略)

また、関係者の自作自演による差別事件なども複数発覚している

これは実際には差別事件など起こっていないにもかかわらず、さも差別事件が発生しているように見せかけた悪質なもので、滋賀県公立中学校差別落書き自作自演事件や解同高知市協「差別手紙」事件などがその一例である。

これは、現在でも行われており、2009年(平成21年)7月7日には、福岡県で、同和地区の出身者である立花町(現・八女市)の嘱託職員の男が、自宅にカッターナイフの刃を同封した差別的な文書を、町役場にも差別的な記述があるはがきを匿名で送るという事件が発生した。

「被害者になれば町が嘱託の雇用契約を解除しにくくなると思った」と男は話しており、県警は偽計業務妨害の疑いで逮捕した。

2009年(平成21年)、福岡県では、2月、立花町役場に採用された被差別部落出身の男性から、県議に、「差別問題を県議会で取り上げてほしい」との電話があった。

2003年(平成15年)からこの男性に対する44通の差別的なはがきが役場などに郵送されていた。県議は、電話を受け、県警に徹底捜査を要請した。

しかし、3ヵ月後、逮捕されたのは「被害者」であるはずの男性だった。この男性は44通すべての関与を認めており、会合で話をして、講演料まで受け取っている。県警は町に雇用を継続させることが目的だったと見ている。



(注)コメント欄は閉じています。
尚、今日はもう一度記事の更新予定です。