広島・長崎に投下された原爆の秘密②


広島・長崎に投下された原爆の秘密②

2014/8/18(月) 「広島・長崎に投下された原爆の秘密①」の続編です。

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東京裁判では下記の私のブログ記事の通り、巣鴨プリズン刑場にて絞首刑になった中に海軍は何故か誰もいないのです。

問われるとしたなら真っ先に追求されのは真珠湾攻撃をした海軍のはずです。
それは何故か?

先ずはそこから書いていきます。
前半はイスラエル建国の役目を果たしたヒトラー、後半はルーズベルト大統領と共謀し日本海軍壊滅を謀った(はかった)山本五十六です。それから本文に移ります。


●今日こそ改めて見直さなければならないこと  2011/12/23(金)
昭和23年12月23日は東京裁判で処刑された巣鴨プリズン刑場にて絞首刑になった7名のうち、東条英機を初めとする陸軍が6名で、残る1名が政治家であった。

自己の歴史観は正常ですか? 2014/8/3(日) 
英国人ヘンリー・S・ストークス氏の文を読んで、この文を異常と思える方は戦後CIAが創った日教組から自虐史観の教育を受け、更にCIAのプロパガンダに毒されたままの人。この文を成る程と思える方の歴史観は正常と言えます。



ヒトラーは生きていた  2013/8/2(金)

ナチス政権とは、ユダヤロスチャイルド等のユダヤの国際金融資本が、ヒットラーというロスチャイルド男爵の直系の孫を使って作り上げたもので、その目的は、ユダヤ人国家イスラエルを創る為にあった。

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ユダヤロスチャイルド卿の孫、アヅルフ・ヒットラーは、イスラエル建国の使命を果たした後、南米で余生を送り20年前まで生きていた?


Hitler a-t-il v?cu jusqu'en 1964?
ヒトラーは、彼が1964年まで住んでいた?

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例えば、FBIの文書では1945年の晩夏から ヒトラーは西部のアルゼンチンのアンデス山脈のふもとにある牧場に住んでいたことが示唆された。

別のFBI文書では1955年、数年前に南米でヒトラーを見ていたと主張した目撃者に言及している。

実際に、FBIはヒトラーが本当に1945年に自殺していた場合は、このアルゼンチンでのFBIの活動を説明することができない。

尚、FBIは1970年まで、ヒトラー生存に関する700ページに及ぶファイルを閉じていなかった。

他方、アルゼンチン政府は、アドルフ·ヒトラーに関する独自のファイルを機密解除していない。もしもヒトラーがドイツで自殺していたなら、このファイルの存在はありえない。

第二次世界大戦終了から二ヶ月後、アルゼンチン沖のドイツの潜水艦2隻とヒトラー目撃情報は幾つもある。

例え2隻の小さな潜水艦といえどもヨーロッパから大西洋を越えてアルゼンチンまでの9週間、無傷であったのは奇跡であり、このことはワシントンの権限を持つ誰かの黙認、又は指示により米海軍が意識的に攻撃しなかったのであり、然も、途中、米海軍は潜水艦に燃料の補給までしてやったことを意味する。

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Hitler and Eva Braun fled Berlin and died (divorced) of old age in Argentina
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Adolf Hitler faked his own suicide and fled to Argentina where he lived until a ripe old age, according to extraordinary new claims.

Authors of the new book 'Grey Wolf: The Escape Of Adolf' believe evidence of the tyrant's suicide is flawed -- and that he actually escaped in 1945 to begin a new life with his wife, Eva Braun.

But the claims have been ridiculed by leading historian Guy Walters who today branded them '2,000 per cent rubbish.'




大東亜戦争のおさらい10分  2014/3/19(水) 

歴史の黒幕  2014/2/18(火)

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近衛文麿首相による戦争の準備は着々と進んで、1941年10月、戦争開始の二か月前に近衛文麿は戦争責任を逃れるために突然退陣し、後戻りの出来ない状況で東条英機は急遽首相に任命される。


【太平洋戦争シリーズ-2】
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開戦前、山本司令長官は近衛首相に戦争に突入した場合の見通しを質問されてこう答えた。

「それは是非やれと言われれば初めの半年や一年の間はずいぶんに暴れてご覧にいれる。しかしながら二年、三年となればまったく確信はもてぬ」

真珠湾攻撃は遠方故にリスクが高すぎるとの考えより当時の海軍首脳で支持する者は一人もいなかったが、

山本長官の「この作戦(真珠湾攻撃)の実施なくば、職を辞する」との信念に軍令部も従った。


・世界を驚愕させた真珠湾奇襲攻撃
画期的だった世界初の機動部隊の編制

大艦巨砲主義」:飛行機ではなく戦艦こそが攻撃の中心であるという考え方が常識であった当時に、空母・航空攻撃の革新的な用法を編み出した日本であるが、その後、戦艦も空母の護衛にまわすという大胆な戦術をすぐに採用したのはアメリカ海軍であった。

・なぜ南雲司令部は第二次攻撃を行わなかったのか

真珠湾攻撃は1941年(昭和十六年)十二月八日、0755から始まり、0945に終わった。停泊していた戦艦8隻のうち、4隻を撃沈し、3隻を大破させた。

南雲司令部は2隻の空母が見当たらず、撃ちもらしたことを残念がったが、ただちに帰途についた。航空隊総指揮官の淵田や「飛龍」「蒼龍」の指揮官山口多聞少将などは、第二次攻撃を行い、基地周辺の石油タンクなども破壊すべきだと主張したが、受け入れらなかった。

「南雲はやるまい…」との山本長官の発言もあり、第二次攻撃は発令されなかった。

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もう一度、真珠湾攻撃を振り返る。

真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。

  不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。

  被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。

戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。

更に付加すれば、

また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。

第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。

  もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。

  ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。

ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。

  さらにもうひとつつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。

もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのはひとつの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾アメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。

  山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。

真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。ひとつは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもうひとつは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言うほかはない。

 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。

吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のひとりフリーメーソンであった。当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。

  日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。

(※)これから見ても、山本五十六吉田茂のみならず、日本外務省と大使館が米国と通じて日本国の弱体化・崩壊を図ったことが理解できる。


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写真(左):日本の空襲をうけた戦艦「カリフォルニア」;真珠湾に停泊していた米海軍の戦艦5隻は撃沈された。

しかし,撃沈された戦艦のうち3隻は,引揚げられ,戦列に復帰している。つまり,真珠湾攻撃による戦艦損失は2隻である。

修理施設も爆撃しておれば、復帰は相当遅れたはずである。


                       
日本帝国海軍絶滅のためにルーズベルト大統領と共謀した山本五十六は、周囲の反対を押し切りミッドウェー海戦を挙行。

日本帝国海軍山本五十六提督は戦略的に大して意味のないミッドウェー海戦の暴挙に出る。然も、空母4隻には護衛無しにである。

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 真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。

山本長官の主張とは「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」というものであった。

  だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。

ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。

  また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋のまんなかで有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。

だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。

  いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。

フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領(フリーメーソン33位階)やチャーチル英首相(フリーメーソン)との約束を死守したのである。

そして山本は当初の計画では4月1日攻撃予定を米軍が日本の暗号を解析するまで2度待ち、結果、5月28日に攻撃したが、日本の暗号を解析した米軍は当然待ち構えていた。

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米空母部隊は日本艦隊を迎撃し空母全部(4隻)を撃沈する。
日本は300機の航空機と熟練搭乗員も失ってしまった。

【日本軍の損害】
空母 4、重巡洋艦 1、飛行機 253 を損失
また、重巡洋艦 1、駆逐艦 2 を損傷

アメリカ軍の損害】
空母 1、駆逐艦 1、飛行機 150 を損失



実際に,司令長官が旗艦に乗艦したミッドウェー海戦では,後方に大部隊を擁して出撃したが,砲撃や空母部隊の護衛はしていない。

(※)これは日本の護衛なしの無防備な空母を敵が撃沈して下さいといわんばかりの陣形であった。

ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナルソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。


                       


山本五十六ヒトラーと同じく死んではいない。戦後も生きていた。彼はニューヨークで何人かの日本人に目撃されているという。

こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。
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宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。

  この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。

  山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。

米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。

山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。

 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。

ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。

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山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38ライトニング戦闘機の武装はイスパノ・スイザ HS.404(口径20 mm)と ブローニングM2重機関銃(口径12.7mm)であり、

『小指頭大ノ射入口、右外眥ニ拇指圧痕大ノ射出口ヲ認ム』という検案記録通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。

また田渕軍医は後方で検死を行っただけで現場を見ておらず、蜷川から引き継ぎも行っていない。田渕自身も不審に思ったが深く追求できず、戦後、粗雑な書類で単なる形式処理であったことを認めている。

実際に、田渕が山本の軍服を記念に保管しようとしたところ、渡辺安次参謀が遺体から衣服を脱がすことを強い口調で禁止した。

公式には機上で即死したと記録されているが異論もある。熱帯地方では死体に猛烈な蛆がわくが、浜砂や中村は19日午後の段階で山本の遺体にウジ虫を認めていない。

この事から、山本は機上での戦死ではなく死亡時刻は19日午前6時ごろと推測する見解もある。

20日午前8時に浜砂と海軍陸戦隊が再び現場に到着すると、山本の遺体顔面は形相が判別できないほど腫れ上がり、遺体全体にウジが猛烈に発生していた。

繰り返して述べると

大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。

傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。

(※)先ほど述べたように、もしも機銃で顔面をやられたら、顔半分は吹き飛んでいたはずである。

  ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。

「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」

  同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。

  にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。

渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。

  前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。

山本長官の「死」は明らかに狂言であろう。
その穏された真相は次の如くであると推測される。

1.山本長官は太平洋戦争前半における帝国海軍崩壊のためのすべての役割を完了した。

2.そのため急遽姿を隠す必要が生じ、側近の宇垣纏中将(連合艦隊参謀長)や渡辺中佐(参煤)と共謀し、あらかじめ暗号をアメリカ側に漏洩した上で長官機撃墜の一大ペテン劇を演出した。

3.当日、山本長官はわざわざ草色の第三種軍装を身にまとい、ジャングルを逃亡の際目立たぬよう略装にした。

4.米軍機攻撃の際、いち早くパラシュートで脱出、地上よりかねて打合せの場所からガダルカナル島米軍基地へと逃亡した。

5.捜索班が事故機を発見したとき、長官の身替りとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛りつけ毒殺した。

6.従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。

7.その後、山本長官を「機上死」であると捏造するため、遺体に拳銃か鋭利な刀物で人工的な死後損傷を加えた。

事実、田淵軍医が検死をしている最中に長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、これ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。

人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、これらのすべては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。

(詳細は転載元の下記URLで)

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山本五十六は生きていた―誰がなぜ歴史の真相を歪曲したか」  (絶版)
著者:ヤコブ モルガン 、忍野 昭太郎 (翻訳) 第一企画出版 (1994/12) ISBN 

BLOG:ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報にこの本の書評を兼ねた下記の記事があります。

日本を「戦争ができない親英米国家」にするために太平洋戦争で日本は「わざと負けた」

<海軍トリオが日本をわざと敗北に導いた>

一言でこの本の主張を要約すると

太平洋戦争は、日本国内にいた、海軍の山本五十六、米内光政、井上成美、陸軍参謀の辻政信瀬島龍三、服部卓四郎らが戦後の日本をアメリカの属国にするために、わざと拙劣な戦い方をした戦争であった」

ということである。

山本五十六が「米英の手先」ではなかったか、という議論は昔からあった。戦時中からあったのである。

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その根拠として、戦後、フリーメーソンに買収された海軍の士官の高級倶楽部「水交社(すいこうしゃ、現港区麻布台2丁目)本部」の建物に山本や米内、さらには英米の士官たちも頻繁に出入りしていた事実が挙げられる。(右の画像)横須賀の水交社支社の建物。

米内内閣の組閣も対米開戦の真珠湾作戦の採用もこの倶楽部で決定されたと言われている。(以下省略)

(※)海軍士官の高級倶楽部「水交社(すいこうしゃ)本部」の跡地には、現在「東京メソニックビル」が建ち、内には、日本のフリーメイソンの中枢が集まっており、「日本グランド・ロッジ」の他、いくつかのブルーロッジ、リサーチ・ロッジやアメリカ管轄のロッジも含め、事務所が割当てられており、秘書業務・財務業務が行われている。

尚、水交社の水交会には横須賀水交会・舞鶴水交会・呉水交会の他北海道・大湊・下総・湘南・関西・香川・佐世保の10支部がある。




前書きが長かった!
以後、ようやく本題に入ります。

■■パート8

ベラスコは語る、

「日本はアメリカに完勝していた」と。

ベラスコによれば、太平洋戦争は日本海軍の大勝利のはずだったという。

日本海軍がアメリカ海軍を徹底壊滅させて戦勝国になる機会が少なくとも4回あったという。広い太平洋海戦の勝利は間違いなかったと断言する。

たとえ情報が敵側から完璧にキャッチされていたにせよ、物量、装備、士気などが英米海軍以上に優れていた初期の日本海軍機動部隊は、普通の参謀が指揮しても開戦初期から一挙に敵をつぶせたというのだ。

その理由の1つは、「TO諜報機関」(ベラスコが創設した対英米スパイ機関)の情報が連合軍側の情報機関と同質の軍事情報を日本政府に届けていたからだという。

だが、日本は、日本民族固有の思考と価値観でTO情報を分析解釈してしまったとベラスコは悔しがる。つまり戦争準備も整わないのに戦争を開始した発想もその一例だが、そうであったとしても、日本海軍は初期の作戦で一気にアメリカ軍をつぶせたと繰り返し断定していたのである。


では、ベラスコのいう日本海軍4回勝利説の戦場はどこか?
彼は語る。

「ミッドウェー、ガダルカナルは完全勝利の場だった。『TO諜報機関』は事前にその戦場と戦闘規模を日本政府に打電した。

たとえ、その暗号電文が解読(盗聴)されていたとしても、文面の裏を読み取れば敵の作戦目的がつかめる情報に整理して日本側に渡した。」

また大戦中、熱心に原爆情報の収集に取り組んでいたベラスコは、『巨大な絶滅兵器をアメリカ軍が日本に落とそうとしている』と暗号無線で日本に知らせたが、精神主義官僚主義でコリ固まっていた日本の政・軍の上層部はそれを無視し続けたという。

ところで、ベラスコにとって、山本五十六海軍大将は尊敬に値する人物だったが、「謎」の多い人物でもあったようだ。

一部の研究家の間では、山本五十六アメリカに通じる「国際組織(メーソン系?)」に所属していたという説が唱えられているが、ベラスコはどう考えているのだろうか。

ホテルのベッドの上に両足を投げ出したベラスコの足先をもみほぐしながらたずねてみた。

「おそらく……」

そう肯定しかけて、ベラスコは目と口を閉じてしまった。



■■パート9

日本に落とされた2つの原爆は、それぞれ、扱われ方に明確な違いがあった。

島型の投下は完全に軍人主導の作戦であったが、長崎型は科学者主導であった。広島に、たった一回きりしか使わない爆弾をなぜ最初に使ったのか?

この疑問こそ、私(高橋)が上の本を書く動機の大きな要素であった。テストなしのぶっつけ本番の投下が何を意味したのか、その答えこそ、私が400余枚を費やしてきたその意味の中にある。

「広島に投下された爆弾がなぜウラン型だったのか」ではなくて「ウラン型爆弾がなぜ広島に投下されたのか」なのである。この答えはこの本の中で明らかにしているつもりであるが、それを実証すべきものはベラスコ証言と私の推理以外には、いま世界の何処にもない。





ナチスが核実験》

独歴史家が新説
【ベルリン=熊倉逸男】

ナチス・ドイツ核兵器開発を実用化直前まで進め、核実験も実施していた──との新説を紹介した本『ヒトラーの爆弾』が14日、ドイツで出版され、信憑性をめぐり論議を呼んでいる。

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著者のベルリン・フンボルト大学講師の歴史家ライナー・カールシュ氏によると、ナチスは1944年から45年にかけてベルリン近郊に原子炉を設置し、濃縮ウランを使った小型核兵器を開発。1945年3月3日、ドイツ東部テューリンゲンで核実験を行なった。被害は半径約500mにわたり、近くの強制収容所の収容者ら約500人が犠牲になった。

開発は、ヒトラーナチス指導層も承知していたという。新たに発見された旧ソ連軍の史料や証言記録、実験場所とされる土壌から放射能が検出されたことなどを「核実験説」の根拠としている。

ドイツでは1930年代から核開発が進められたが、ナチスは兵器化に熱心ではなく、ナチス核兵器保有を懸念した科学者らの訴えを聞いた米国が先んじて、原爆を開発した──というのがこれまでの定説だった。独メディアは新史料発見を評価する一方、「核実験説」の説得力不足を指摘している。



(その他、記事・画像抜粋先)

ミッドウェー海戦の悲劇 - 日本空母 壊滅の時」 そのとき歴史が動いた(1/4)

アジア歴史資料館