広島・長崎に投下された原爆の秘密①


『ベラスコの告白 広島原爆はナチス製だった』 
── 高橋レポート ──
このレポートを理解するためには、シオニストシオニズム)を理解する必要があります。先ずはそれに関することから書いていこうと思います。

(※)シオニストとは世界各地に散らばったユダヤ系の人々が「約束の地」(今のイスラエル)に帰還、及びユダヤ国家を再建しようとする運動する人達の事。



(※)生前、ハビブ・シーバーは次のように語ったという。

「反ユダヤなどというものは、この世界のどこにもない。反ユダヤシオニストたちが自分たちの都合のためにつくり出す騒ぎなのである。」

「私たち民族の弱点は調子に乗ってやりすぎることである。自分の力を過信する。そして振り返ったとき、すでに味方する者はなく敵ばかりとなる。やりすぎることが滅びの前兆なのである。いつも私はこのことを心配している。」



(※)私のかってのブログ記事

●戯曲『ヴェニスの商人』とTPP  2013/3/22(金) 

不思議なことに、当初、この戯曲をユダヤ人を狡猾と看做し卑下した差別的なものと思っていましたが、そう考えると、何故に継続して上演されてきたのか?

彼等の富と政治力からすると、この戯曲の上演を禁止することぐらい朝飯前ではないか? それが映画にもなっている。では一体何故?

●捏造された歴史を叫び続ける醜態  2012/1/18(水)

第二次世界大戦ユダヤ人国家『イスラエル』(1948年独立宣言)を創るための茶番劇だったので、それを隠すために歴史が捏造された。
 改めて言いますと「ナチスによるユダヤ人600万人大虐殺はなかった!」が正解。

●「アンネの日記」はおっちゃんが書いた小説  2012/1/20(金) 

アンネの日記」は少女アンネ・フランクが書いたものではなく、ユダヤアメリカ人作家メイヤー・レビン(男性)がアンネ、又はアメリカの少女の誰かの日記を参考にし、捏造して創作した小説。
 
依頼者は、アンネの父、ユダヤ系ドイツ人、オットー・ハインリヒ・フランク。小説だから当然内容もフィクションで実際には無かったのです。

ガス室の多くは戦後にわざわざ公に見せるために建設されたものでポーランド政府もこの事を認めています。



ヒトラーはユダヤ・ロスチャイルド卿の孫
(※)英国王室はゴールドスミスの血であり、ロスチャイルドの血。


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ヒトラーがドイツの権力の座についた理由、そして第二次世界大戦の本当の目的は、

ユダヤ人が彼らの祖国であるパレスチナに帰るように追放し、ユダヤ国家(イスラエル)の建設(シオニズム運動)にあった。

(※)1929年と1931年にヒトラーのナチ党の前身「ドイツ社会労働党」は、アメリカの国際資本家グループから、それぞれ1000万、1300万の米ドル献金を受けている。

これらナチス献金した国際金融資本とは、アヴェレル・ハリマン、プレスコット・ブッシュ、J・P・モルガン、ウォーバーグ兄弟、シュローダー兄弟など、ウォール街とシティの国際銀行家達。また国際決済銀行ナチスの財源確保に加担した。

ナチ党が主導権を握った1933年には700万米ドルの献金を同一グループから受けていた(UPI報道)こともあるという。

アメリカにかぎらずドイツ国内や英国、フランス、オランダなどの国際資本家グループの資金もいったんナチ党の金庫に収納された。

(※)J・F・ケネディの父親もナチ党に献金した。

(※)ブッシュ閥がナチ党に化学製品を売り込んで莫大な利益をあげたように、国際金融資本グループは、献金の何倍もの利益をあげた。

(※)創設当初のナチ党に100万マルク支援した2人のユダヤ人、オッペンハイマーとウォーバーグたちは、ナチ党崩壊と同時に西ドイツ政府から賠償金20億ドルを逆払いさせている。



その目的のために、700万人以上のドイツ人が殺されました。この数はユダヤ人やポーランド人の死亡数どころではありません。

ヒトラーユダヤ人絶滅命令を一回として出してはいないのです。
彼が部下に命じたのは追放することのみでありました。

もう一度言うなら、『ヒトラーに殺されたのはユダヤ人やポーランド人ではなく、ドイツ人である』と

(訂正)連合軍が東京空襲のようにドイツの都市部の空爆でドイツ市民を殺し、他方、捕虜にしたドイツ兵を飢餓で殺した。その数は700万人以上で、その大量虐殺を隠蔽するためにアウシュビッツなどのナチス強制収容所で600万人のユダヤ人が殺されたと宣伝している。

実際、強制収容所で死んだユダヤ人は3万人にすぎず、然も、その死因は、ユダヤ人の不潔な生活様式からくるシラミの大繁殖による発疹チフスであっつた。

 ★★★

ヒトラーユダヤ問題解決のため、アメリカやイギリスと極秘のうちに話し合いを進めていました。

その時の連絡係を果たしたのがアイヒマン役目上彼は国際ユダヤ組織のトップたちと何度となく話し合っている。そして彼らの考えを克明に記録に残した。

ワイツマンはユダヤ人たちが迫害され、あるいは殺されることによってそれがイスラエル建国のバネとなり、また戦争後のユダヤ人たちが世界にアピールしていくときのバネになると、彼ははっきり答えています。

ヒトラーの犠牲になった大半はドイツ人だが、一部犠牲になったユダヤ人のほとんどはシオニストではありませんでした。特にポーランドユダヤ人の場合、大多数がシオニズムと縁を切っていました。

このシオニストではないポーランドユダヤ人は、ユダヤ人の悲劇を演じるために殺されたのです。

多くのユダヤ人が殺されれば殺されるほど、全世界の同情はユダヤ人に集まり、シオニストによるユダヤ国家建設が正当化されたのです。自分たちの目的達成のためには同胞さえも見捨てる。それがシオニストユダヤ人たちの本性だったのです。

(※)『アンネの日記』は世界の同情をかうために、事実を歪曲して創作されたものです。

イスラエルの国の建国を目指すユダヤ人(シオニスト)は、むしろ積極的にナチスに協力しました。

シオニストの目的は、あくまで「シオンの地」パレスチナでの国家建設にあり(「シオニズムはすべてに優先する」)、結果として彼らは、1878年以来、ロスチャイルド家が土地買収を続けてきたパレスチナに、ユダヤ国家を建設することに成功したのです。
 

(※)1939年 第二次世界大戦勃発。
ナチスドイツはソ連と不可侵条約、翌年にはドイツ・ソ連通商協定を結び、ヒトラーは「賎しいユダヤ人」「呪うべき共産主義者」と攻撃していたはずの共産主義ソ連と手を組んで、石油・貴金属・穀物の供給を受けた。

ドイツは日本と同じで石油が出ないので、ドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。

しかし、ドイツにソ連バクー油田から石油を供給して戦争を継続させたのは、ロスチャイルド=ノーベル財閥の石油会社シェル(敵国である英国籍)であった。

ユダヤ人定義

ナチス時代は簡単に言えば、祖父母のうち一人でもユダヤ人ならユダヤ人。イスラエルの現在採用しているユダヤ人定義は『母親がユダヤ人か、あるいはユダヤ教徒』。



以下、本文です。

ベラスコの告白
広島原爆はナチス製だった

■■パート1

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ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップスパイのベラスコによると、ナチス製原爆の完成はアプヴェール(ドイツ国防軍情報部)長官のカナリスと、SS情報部(RSHA)長官のシューレンベルグから直接耳打ちされた情報だったという。

そして、ベラスコによれば、これまで歴史家が伝えるロンメル自殺の原因は、ヒトラー暗殺未遂事件のかどでとされているが、実際は「ナチス製原爆横流し」の罪だったという。

ベラスコからの報告書「原爆ノート」によれば、ベルギーに保管中の原爆の管理責任者はロンメル将軍で、彼がアイゼンハワー連合軍最高司令長官に原爆を渡した、とある。その裏切り行為が発覚してロンメルは処罰されたという。

ベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相を大雑把にまとめると次のようになる。

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1938年12月、ナチス・ドイツの「カイザー・ウィルヘルム研究所」の科学者オットー・ハーン(右の画像)とシュラウスマンは、世界に先駆けて「原子核分裂」を発見した。

1940年3月には、世界最初の「実験原子炉」がベルリン・ダーレムに設置された。

このように、ナチス原子核研究は、アメリカを遥かにしのいでいた。

1940年6月、ドイツ軍のパリ入城。この時にジョリオ・キューリー博士の「原子核研究装置」を没収し、ドイツによる原爆の完成は不動のものとなった。

更にドイツ軍は、ベルギー・オランダ・ルクセンブルグを攻撃し、地球上のウラン産出地域を占領したので、ウラン資源がアメリカ側に渡ることもなく原爆の製造条件は、全てドイツの手に独占されたのである。

ナチス製原爆のエレメント、すなわち爆弾の個々の部分と素材は、チェコボヘミア地方の原生林に移送されて組み立てられ、1942年4月21日に段階的実験を大成功させた。

この実験グループの統括責任者はハベルムール氏で、彼は当時最も革新的な兵器の開発研究者らで構成されたグループの統括責任者だった。

バルト海沿岸の「ペーネミュンデ基地」でナチス製原爆は最終的完成にいたり、その後ベルギーのリハエ郊外にある基地に移送保管された。

「ゾンデルブーロー第13号」と称される極秘の爆撃機でロンドン、リバプールの上空で投下する予定だったが至らなかった。未投下の理由は、ヒトラーが「死体はもうご免だ」と言って、中止を命じたためだった。

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ナチス製原爆は、ドイツの英雄ロンメル将軍麾下のシュパイデル参謀長が管理した。

アフリカ戦線から撤退したロンメル将軍は、反ヒトラーグループ「黒いオーケストラ」と内通し、ベルギーに根を張る国際金融資本のコネクションを通じて、ナチス製原爆を1944年11月にアメリカのアイゼンハワー連合軍最高司令長官に引き渡した。

ロンメル将軍は、原爆の持つ政治的価値を全く理解していなかった。

シューレンベルグ指揮下のV1-C-13のエージェントが、このロンメル将軍の裏切り行為をキャッチし、その事実はヒトラーに伝えられ、ロンメル将軍を処置するようヒトラーから命令が下った。

ロンメル将軍はゲシュタポに検挙され、ヒトラー暗殺未遂犯らと一緒に適正処分された。しかし時はすでに遅く、原爆横流しの対応策は得られなかった。

ベラスコはアメリカの原爆の完成日と日本投下日までの微妙なズレなど、様々な状況証拠をもとに、ナチス製原爆はその後、日本投下に使用されたと断定する。

戦後、ナチス製原爆のいきさつを知る何人かのドイツ人が完成までの責任者の証言や、ベルギー移送後の極秘の事実を記録すべく調査に着手したものの、CIAはそれらを迅速な方法で妨害し、秘密は消滅したと見られている。

不幸なことに、統括責任者ハベルムール氏はソ連軍によってブレスラウのミテ工場に留置されたのち、モスクワに移送され消息不明になっている。

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■■パート2

●以上がベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相の全体像である。

ベラスコは、ナチス製原爆完成を信じ切っており、その原爆を日本に投下したアメリカを頭から疑ってかかっていた。

ベラスコは言った。「広島に投下された爆弾が、即、ナチス製の完成品そのものとは思えない。多分そのナチス製の原爆にアメリカ国内で更に工夫をこらして仕上げ、そして広島に投下したのだと思う。」

私(高橋)は質問した。
ナチス製の原爆は間違いなくアメリカに渡ったと断言できるのですね?」

「まったく事実だ。しかしアメリカ側はこの事実を無視または否定するだろう。ナチス製の原爆がアメリカ国内に運びこまれるまでに、アメリカ国内で原爆は完成していなかったのだ。

多分、この事実を知ったら日本人は、相当驚くだろう。しかもこの事実はビッグニュースになるだろう。それにこの事実が世界に知られたら、アメリカが作ってきた神話が崩壊するだろう。」

ベラスコによれば、原爆投下は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったというが、それはさておき、なぜ他国の製品(ドイツ製)をわざわざ使用したのか。

ドイツ爆弾の完成根拠、アメリカの転用投下の理由をめぐって、ベラスコとの論争は堂々めぐりになっていった。そして袋小路に入ってしまったのであった。

(ベラスコと初対面の時から数えて約2年目まで、毎月1回程度、彼と会い続けた。1回あたりが15分間以内の場合もあれば、延々3時間にも及ぶ時もあった)。(中略)



■■パート3

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興味深いことに、大戦終了後に設立されたNATO北大西洋条約機講)の初代事務総長は、なんと敗戦国ドイツの西部方面司令官ロンメル将軍の参謀長ハンス・シュパイデルである。

ナチスの原爆の管理担当者が、戦争終了直後に、それまでの敵軍つまり連合軍側の形を変えた総合責任者になれたのは何故だろう。シュパイデルは連合軍にどんな貢献をしたのだろうか。

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シュパイデルはナチス製原爆をどうやってアイゼンハワーに渡したのだろうか。

ベラスコの「ノート」にはなかった別情報によれば、ナチス製原爆はイスラエル独立運動家(シオニスト指導者)が仲介して英国へ持ち出した可能性があるという。そしてこのイスラエル独立運動家を支援したのが、英国特殊部隊(SOE)だったという。

大戦中に民間人と軍人が共同で作戦を実行した例は山ほどある。例えば、1944年のノルウェー人の抵抗運動家らと共同で作戦を成功させた。この話はドイツが原爆開発の夢を断たれた作戦として、戦後、本や映画でよく知られている。

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ナチス製原爆の英国への極秘搬入作戦が事実とすれば、チャーチルをして神に祈らせた事だろう。というのは、チャーチルヒトラーを最初、「ヨーロッパのジョージ・ワシントン」と呼んで絶賛した男だった。

なのに、ニューヨークで自動車事故にあってからは、回れ右をしてヒトラー罵倒を始めた、つまり「賢くなった」男でもある。

従って、戦争終結間際にヒトラーの原爆を極秘に運び出す為に、イスラエル独立運動家に自国の特殊部隊員を協力させる動機は充分にあった。つまり、シュパイデルとアイゼンハワーの間にはプロとアマの「仲介人」がいたとしても不思議ではない。



■■パート4

ヒトラーは原爆を持っていた──ベラスコのこんな突飛な発言を裏付ける人物と出会った。その中国人亡命者マドリードで会ったのは、ベラスコの発言から7年も後の1991年の事だった。(中略)

汪一族は親日家だったが故に、毛沢東の共産軍に全員処刑されたといった。

汪は父親が北京政府の重要な人物で、自分は少年時代からフランスに疎開させられ、そこで教育を受けて終戦まで殆ど欧州に住み続け、欧州に居たために、こうして生き延びた。終戦まで北京政府の駐ベルリン総領事を勤めたといった。

ベルリン駐在日本大使の大島浩とも駐スペイン須磨公使とも親しくしていたと言いながら、汪はアルバムの中の2人の写真を探し始めた。兄は駐スペイン大使のまま終戦を迎えたが、マドリッドの路上でフィリピン人青年に殺害された。それで最後の身内を失ったのだ、と言った。

その用談が終わってから、ふとナチス製原爆を思い出して、汪に問いかけてみた。
すると汪はあっさりとナチス製原爆の存在を肯定した。

ベルリン陥落直前にヒトラーナチス製原爆を所持していたという噂があるが? 
「スィー、スィー」 汪は表情も変えずに質問を認めた。

ならば、その原爆をドイツはなぜ使わなかったのだろうか。
「当時のベルリンの空気は暗黒で、誰もが浮き足立っていて、それどころではなかったのだろう」と言った。

それは、ヒトラーが原爆使用を云々する状態ではなかったという意味か。 
「その通りだと思う」、と汪。

では、あなたは誰からナチス製原爆の存在を聞いたのか。 
「ベルリンの枢軸国外交官なら誰でも知っていたのではなかろうか」 
汪は当然のように、そう答えた。



■■パート5

我々は一口に原爆というが、広島と長崎では別タイプ(威力も含めて)のものであることを忘れがちになる。

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広島に投下された原爆はウラン型だった。次の長崎は性格の違うプルトニウム型で、しかもこのプルトニウム型原爆は、長崎の次の目標地にも準備された型であった。

広島投下1ヶ月前の1945年7月16日、アメリカは、ニューメキシコ州アラモゴードで初の原爆実験に成功する。この時の原爆もプルトニウム型であった。

ここで重要なことは、ウラン型原爆は現在でも開発されていないということである。つまり広島に投下された原爆(ウラン型)は実験済みの原爆ではなくて、人類に対する最初にして最後の原爆だったのだ。

なにゆえに、日本に2つのタイプの原爆が投下されたのだろうか。

今でもアメリカの原爆の開発計画と日本への投下計画は最高機密であるが、ベラスコの証言の信憑性が高いことは、次の一端だけでも理解できよう。

広島に投下されたウラン型原爆は、テスト実験もなく、いきなり本番の兵器として使用され、現在まで幾多の核実験を含めて一度も使用されていない。

長崎に投下されたプルトニウム型原爆は科学者主導で研究開発され、記者や科学者を爆撃機に搭乗させて大々的にアピールされた。

しかし広島行きのエノラ・ゲイ号の「リトル・ボーイ」は一部軍人以外、科学者の目には触れさせないようにして投下されたのだ。

当時、ローレンスという名の記者がいたが、この男は世界でただ1人、アメリカ政府によって原爆計画の取材を許可されたジャーナリストであった。

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しかし、ローレンス記者はエノラ・ゲイ号に世界初の目撃者として搭乗させてもらえなかったばかりか、搭乗員との接触、そして原爆の搭載にも立ち合わせてもらえなかった。

しかし2番機の長崎爆撃の際には、ローレンス記者は搭乗し、しかも出発前の原爆搭載風景、パイロットの心境その他、多くの場面を目撃させられている。

それはなぜなのか。なぜ1番機のエノラ・ゲイ号には一切触れさせてもらえなかったのか。20億ドルの巨費を使ったプロジェクトにたった一人の目撃者作りという、慎重な検討を感じさせる当局側の意図によって前線記者として狩り出された意味は一体何なのか。彼は何に対して目をふさがれたのか。

また、1978年に「オークリッジ国立研究所」が放射能の影響を調査するため、国防総省核防衛局に広島型(ウラン型)の核実験を要請するも「広島型原爆は1個も存在しない。作るのは危険であり同じものはない」との返答だった。

ところが、1981年5月になってHNK取材班がロスアラモス研究所付近の倉庫に3個の「リトル・ボーイ」(ウラン235型)が保管されていることを発見したのである。

この事実を知る者はアメリ原子力機密法に触れるため、誰にも喋れなかったというが「ない」はずのウラン235型が「あった」のだ。その理由について正式な回答は今もってない。

これらの謎は、「リトル・ボーイ」がナチス製原爆だったとすれば全て納得できることである。

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■■パート6

原爆に関して、更にもう1つ大きな謎が残されている。

1943年5月5日、原爆投下目標地点を決定するアメリカ政府の暫定委員会は、自国の原爆がまだ未完成でしかもヒトラー・ドイツと戦っているにもかかわらず、なぜか早々と最初の原爆投下目標地点を決定した。

戦後になってその投下目標地点名を記入した議事録が、「アメリ国立公文書館」で戦史公開資料として一般公開された。

それによると、最初の原爆投下目標地点は太平洋のトラック諸島、つまり「日本軍」と記されていた。奇妙な決定だ。この決定に、当時の原爆開発者から怒りの声が上がるという経緯があった。なぜ日本軍に対して原爆を使うのか?というわけだ。

ドイツから命がけでアメリカに駆けつけて原爆開発に粉骨砕身したのは、ヒトラーのナチズムをつぶして、一日も早く祖国欧州の危機を救うためだった。

なのにこの決定はなにごとか。原爆開発に専念してきた物理学者らは、政府に断固抗議した。だが政府は、抗議を無視した。

戦後、アメリカ政府はこの「投下目標地点決定議事録」を一般公開した。戦史研究家らはその公開資料から、原爆の最初の投下目標先をトラック諸島の「日本軍」に設定していた事実と学者らの非難事実をあわせて知った。

奇妙な出来事はさらに続く。なんとアメリカ政府は、いったん公開したその資料を回収、ふたたび非公開にしてしまったのだ。むろん現在もその状態が続いている。これはどうしたわけか?

「回収は当然だ」 ベラスコの感想はただそれだけだった。
そして別の日、ベラスコは次のように語った。

「ほぼ完成したナチス製の原爆を広島に投下させたニューヨークの商人連中は、戦後、ソビエト・ロシアにも原子力発電所を売りさばいた。

その裏取引の実態は、はしなくもチェルノブイリ原発事故で明らかになった。事故が発生するや、ソビエトの専門家より先にアメリカの原発専門家が現地に到着して、ソ連原発行政の裏をのぞかせてしまったのである。」



■■パート7

ベラスコによれば、「原爆投下」の謎解きのカギは第一次世界大戦あたりまで戻って考える必要があるという。また彼によれば、「原爆投下」は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったという。

ベラスコは言う。
アメリカ側に原爆が渡ったために、イギリスはアメリカに依存せざるを得なくなったのだ。アメリカにとっては商売になったが、イギリスは商売にならなかった。この第二次世界大戦で真の意味の敗戦国はイギリスだろう。帝国を失ったではないか。」

私はベラスコに質問した。
「あなたはナチス・ドイツの反ヒトラーの動きの中で、反ヒトラーの人々との接触もあったのですか?」

「いや、接触はなかった。最初、そんな反ヒトラーの動きを知らなかった。もしも知っていたら、抵抗して動きを抑えにかかったと思う。しかし軍部内での反ヒトラー気運は1941年の末には始まっていた。

それはソ連をドイツ軍が攻撃した時点では既に勝ち越せるほどの軍事力をドイツ軍が備えてはいないのに、対ソ連攻撃をしてしまったという見当違いへの批判が背景になって、反ヒトラーの流れになっていたと思う。」

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ソ連西部の都市「スターリングラード」の戦いで、ソ連軍はドイツ軍に決定的な打撃を与え、以後の戦局に大きな影響を及ぼした。(この戦いは、第二次世界大戦の決定的な転機となった)

9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後シベリアの収容所から生きてドイツに帰った者は、わずか6000人だった。

ベラスコは話を続けた。

「実は、ナチ(NAZI)という語は、ヘブライ語ユダヤ人らの言葉であり、ドイツ語ではないのだ。民族主義の気運をドイツ国内に作り出したのはユダヤ人らであった。

現在私と共同執筆中のロマノネス・コンデ伯爵夫人(本名ラテボーロ妃)は、イギリス側とコンタクトのあったアメリカのスパイだったが、彼女は2つの情報機関に属していた。

その1つはドイツの国防軍情報部に。他の1つは日本の憲兵隊にであった。で、実際に私は東京宛に反ヒトラー、反ナチズムの動きを知らせておいた。」

「結局、その反ナチズム、反ヒトラーの気運が連合国側に原爆を渡す理由になったと解釈すべきなのですか?」

「その通りだ」



※ 

「ナチ党」の正式名称は、「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」である。

一般に、「ナチ(NAZI)」という呼称は、当時の政敵、後には連合軍が使った蔑称であると説明されている。

しかし、別の裏情報によると、「ナチ(NAZI)」の本当の意味は、
「国際シオニスト連盟 (National Association of Zionist International)」だという。
「Zionist(シオニスト)」とは、イスラエル回帰を求めるユダヤ人の原理主義者の集まりである。


                               つづく

『広島・長崎に投下された原爆の秘密②』 2014/8/22(金) 


(本記事転載元)

ベラスコが語るユーチューブ
大東亜戦争】日本の諜報組織「東」とは・・(01。02)