広島・長崎に投下された原爆の秘密①
『ベラスコの告白 広島原爆はナチス製だった』
── 高橋レポート ──
(※)生前、ハビブ・シーバーは次のように語ったという。
「私たち民族の弱点は調子に乗ってやりすぎることである。自分の力を過信する。そして振り返ったとき、すでに味方する者はなく敵ばかりとなる。やりすぎることが滅びの前兆なのである。いつも私はこのことを心配している。」
(※)私のかってのブログ記事
●戯曲『ヴェニスの商人』とTPP 2013/3/22(金)
不思議なことに、当初、この戯曲をユダヤ人を狡猾と看做し卑下した差別的なものと思っていましたが、そう考えると、何故に継続して上演されてきたのか?
彼等の富と政治力からすると、この戯曲の上演を禁止することぐらい朝飯前ではないか? それが映画にもなっている。では一体何故?
●捏造された歴史を叫び続ける醜態 2012/1/18(水)
●「アンネの日記」はおっちゃんが書いた小説 2012/1/20(金)
依頼者は、アンネの父、ユダヤ系ドイツ人、オットー・ハインリヒ・フランク。小説だから当然内容もフィクションで実際には無かったのです。
(※)英国王室はゴールドスミスの血であり、ロスチャイルドの血。
これらナチスに献金した国際金融資本とは、アヴェレル・ハリマン、プレスコット・ブッシュ、J・P・モルガン、ウォーバーグ兄弟、シュローダー兄弟など、ウォール街とシティの国際銀行家達。また国際決済銀行もナチスの財源確保に加担した。
ナチ党が主導権を握った1933年には700万米ドルの献金を同一グループから受けていた(UPI報道)こともあるという。
(※)ブッシュ閥がナチ党に化学製品を売り込んで莫大な利益をあげたように、国際金融資本グループは、献金の何倍もの利益をあげた。
彼が部下に命じたのは追放することのみでありました。
(訂正)連合軍が東京空襲のようにドイツの都市部の空爆でドイツ市民を殺し、他方、捕虜にしたドイツ兵を飢餓で殺した。その数は700万人以上で、その大量虐殺を隠蔽するためにアウシュビッツなどのナチスの強制収容所で600万人のユダヤ人が殺されたと宣伝している。
★★★
多くのユダヤ人が殺されれば殺されるほど、全世界の同情はユダヤ人に集まり、シオニストによるユダヤ国家建設が正当化されたのです。自分たちの目的達成のためには同胞さえも見捨てる。それがシオニスト・ユダヤ人たちの本性だったのです。
(※)『アンネの日記』は世界の同情をかうために、事実を歪曲して創作されたものです。
シオニストの目的は、あくまで「シオンの地」パレスチナでの国家建設にあり(「シオニズムはすべてに優先する」)、結果として彼らは、1878年以来、ロスチャイルド家が土地買収を続けてきたパレスチナに、ユダヤ国家を建設することに成功したのです。
(※)1939年 第二次世界大戦勃発。
ドイツは日本と同じで石油が出ないので、ドイツに戦争をやめさせたければ石油の供給を止めればよいのである。
(※)ユダヤ人定義
以下、本文です。
ベラスコの告白
広島原爆はナチス製だった
■■パート1
ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップスパイのベラスコによると、ナチス製原爆の完成はアプヴェール(ドイツ国防軍情報部)長官のカナリスと、SS情報部(RSHA)長官のシューレンベルグから直接耳打ちされた情報だったという。
ベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相を大雑把にまとめると次のようになる。
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1940年3月には、世界最初の「実験原子炉」がベルリン・ダーレムに設置された。
1940年6月、ドイツ軍のパリ入城。この時にジョリオ・キューリー博士の「原子核研究装置」を没収し、ドイツによる原爆の完成は不動のものとなった。
この実験グループの統括責任者はハベルムール氏で、彼は当時最も革新的な兵器の開発研究者らで構成されたグループの統括責任者だった。
アフリカ戦線から撤退したロンメル将軍は、反ヒトラーグループ「黒いオーケストラ」と内通し、ベルギーに根を張る国際金融資本のコネクションを通じて、ナチス製原爆を1944年11月にアメリカのアイゼンハワー連合軍最高司令長官に引き渡した。
ロンメル将軍は、原爆の持つ政治的価値を全く理解していなかった。
戦後、ナチス製原爆のいきさつを知る何人かのドイツ人が完成までの責任者の証言や、ベルギー移送後の極秘の事実を記録すべく調査に着手したものの、CIAはそれらを迅速な方法で妨害し、秘密は消滅したと見られている。
不幸なことに、統括責任者ハベルムール氏はソ連軍によってブレスラウのミテ工場に留置されたのち、モスクワに移送され消息不明になっている。
■■パート2
●以上がベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相の全体像である。
私(高橋)は質問した。
多分、この事実を知ったら日本人は、相当驚くだろう。しかもこの事実はビッグニュースになるだろう。それにこの事実が世界に知られたら、アメリカが作ってきた神話が崩壊するだろう。」
ベラスコによれば、原爆投下は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったというが、それはさておき、なぜ他国の製品(ドイツ製)をわざわざ使用したのか。
ドイツ爆弾の完成根拠、アメリカの転用投下の理由をめぐって、ベラスコとの論争は堂々めぐりになっていった。そして袋小路に入ってしまったのであった。
(ベラスコと初対面の時から数えて約2年目まで、毎月1回程度、彼と会い続けた。1回あたりが15分間以内の場合もあれば、延々3時間にも及ぶ時もあった)。(中略)
ベラスコの「ノート」にはなかった別情報によれば、ナチス製原爆はイスラエル独立運動家(シオニスト指導者)が仲介して英国へ持ち出した可能性があるという。そしてこのイスラエル独立運動家を支援したのが、英国特殊部隊(SOE)だったという。
大戦中に民間人と軍人が共同で作戦を実行した例は山ほどある。例えば、1944年のノルウェー人の抵抗運動家らと共同で作戦を成功させた。この話はドイツが原爆開発の夢を断たれた作戦として、戦後、本や映画でよく知られている。
なのに、ニューヨークで自動車事故にあってからは、回れ右をしてヒトラー罵倒を始めた、つまり「賢くなった」男でもある。
従って、戦争終結間際にヒトラーの原爆を極秘に運び出す為に、イスラエル独立運動家に自国の特殊部隊員を協力させる動機は充分にあった。つまり、シュパイデルとアイゼンハワーの間にはプロとアマの「仲介人」がいたとしても不思議ではない。
汪は父親が北京政府の重要な人物で、自分は少年時代からフランスに疎開させられ、そこで教育を受けて終戦まで殆ど欧州に住み続け、欧州に居たために、こうして生き延びた。終戦まで北京政府の駐ベルリン総領事を勤めたといった。
ベルリン駐在日本大使の大島浩とも駐スペイン須磨公使とも親しくしていたと言いながら、汪はアルバムの中の2人の写真を探し始めた。兄は駐スペイン大使のまま終戦を迎えたが、マドリッドの路上でフィリピン人青年に殺害された。それで最後の身内を失ったのだ、と言った。
その用談が終わってから、ふとナチス製原爆を思い出して、汪に問いかけてみた。
すると汪はあっさりとナチス製原爆の存在を肯定した。
「スィー、スィー」 汪は表情も変えずに質問を認めた。
ならば、その原爆をドイツはなぜ使わなかったのだろうか。
「当時のベルリンの空気は暗黒で、誰もが浮き足立っていて、それどころではなかったのだろう」と言った。
それは、ヒトラーが原爆使用を云々する状態ではなかったという意味か。
「その通りだと思う」、と汪。
では、あなたは誰からナチス製原爆の存在を聞いたのか。
「ベルリンの枢軸国外交官なら誰でも知っていたのではなかろうか」
汪は当然のように、そう答えた。
なにゆえに、日本に2つのタイプの原爆が投下されたのだろうか。
今でもアメリカの原爆の開発計画と日本への投下計画は最高機密であるが、ベラスコの証言の信憑性が高いことは、次の一端だけでも理解できよう。
広島に投下されたウラン型原爆は、テスト実験もなく、いきなり本番の兵器として使用され、現在まで幾多の核実験を含めて一度も使用されていない。
しかし広島行きのエノラ・ゲイ号の「リトル・ボーイ」は一部軍人以外、科学者の目には触れさせないようにして投下されたのだ。
当時、ローレンスという名の記者がいたが、この男は世界でただ1人、アメリカ政府によって原爆計画の取材を許可されたジャーナリストであった。
しかし2番機の長崎爆撃の際には、ローレンス記者は搭乗し、しかも出発前の原爆搭載風景、パイロットの心境その他、多くの場面を目撃させられている。
それはなぜなのか。なぜ1番機のエノラ・ゲイ号には一切触れさせてもらえなかったのか。20億ドルの巨費を使ったプロジェクトにたった一人の目撃者作りという、慎重な検討を感じさせる当局側の意図によって前線記者として狩り出された意味は一体何なのか。彼は何に対して目をふさがれたのか。
また、1978年に「オークリッジ国立研究所」が放射能の影響を調査するため、国防総省核防衛局に広島型(ウラン型)の核実験を要請するも「広島型原爆は1個も存在しない。作るのは危険であり同じものはない」との返答だった。
ところが、1981年5月になってHNK取材班がロスアラモス研究所付近の倉庫に3個の「リトル・ボーイ」(ウラン235型)が保管されていることを発見したのである。
これらの謎は、「リトル・ボーイ」がナチス製原爆だったとすれば全て納得できることである。
■■パート6
原爆に関して、更にもう1つ大きな謎が残されている。
それによると、最初の原爆投下目標地点は太平洋のトラック諸島、つまり「日本軍」と記されていた。奇妙な決定だ。この決定に、当時の原爆開発者から怒りの声が上がるという経緯があった。なぜ日本軍に対して原爆を使うのか?というわけだ。
なのにこの決定はなにごとか。原爆開発に専念してきた物理学者らは、政府に断固抗議した。だが政府は、抗議を無視した。
戦後、アメリカ政府はこの「投下目標地点決定議事録」を一般公開した。戦史研究家らはその公開資料から、原爆の最初の投下目標先をトラック諸島の「日本軍」に設定していた事実と学者らの非難事実をあわせて知った。
奇妙な出来事はさらに続く。なんとアメリカ政府は、いったん公開したその資料を回収、ふたたび非公開にしてしまったのだ。むろん現在もその状態が続いている。これはどうしたわけか?
「回収は当然だ」 ベラスコの感想はただそれだけだった。
そして別の日、ベラスコは次のように語った。
■■パート7
ベラスコによれば、「原爆投下」の謎解きのカギは第一次世界大戦あたりまで戻って考える必要があるという。また彼によれば、「原爆投下」は、戦後世界の覇権根拠に決定的役割を見据えての決定だったという。
ベラスコは言う。
私はベラスコに質問した。
9万1000人のドイツ軍捕虜のうち、戦後シベリアの収容所から生きてドイツに帰った者は、わずか6000人だった。
ベラスコは話を続けた。
現在私と共同執筆中のロマノネス・コンデ伯爵夫人(本名ラテボーロ妃)は、イギリス側とコンタクトのあったアメリカのスパイだったが、彼女は2つの情報機関に属していた。
「結局、その反ナチズム、反ヒトラーの気運が連合国側に原爆を渡す理由になったと解釈すべきなのですか?」
「その通りだ」
※
一般に、「ナチ(NAZI)」という呼称は、当時の政敵、後には連合軍が使った蔑称であると説明されている。
しかし、別の裏情報によると、「ナチ(NAZI)」の本当の意味は、
「国際シオニスト連盟 (National Association of Zionist International)」だという。
つづく
『広島・長崎に投下された原爆の秘密②』 2014/8/22(金)
(本記事転載元)
ベラスコが語るユーチューブ
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