日本の心・精神の他国との違い


ひとこと『全員海に飛込め!』と言ったなら大半の乗客を救助できたのに、その一言さえ言わず真っ先に逃げるのは朝鮮半島人の歴史であり歴史的必然の韓国。歴史にたがわず自国民を海の藻屑と化した韓国の旅客船セウォル号」の船長達。

この歴史のことは確か先日の韓国紙に掲載されていましたね。

これが我ら日本人の心と精神との大きな違いです。

このことで真っ先に思い出したのは、英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長の実話です。
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(参考)
イギリス人が感銘した武士道 2013/11/17(日) 

世界が絶賛する『武士道精神』とは?
『敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』

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実は、この工藤俊作艦長が小学校3年の朝礼の時、校長先生によって読まれた下記に述べる佐久間艦長遺書を聞き、彼は海軍士官を目指したのでした。

以下、その佐久間艦長の実話の記事と画像を抜粋して掲載します。
佐久間艦長以下第六潜水艇乗組員14名の行動は、日本人の心であり、精神であり、目頭が熱くなるのは私だけではないでしょう。

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明治43年(1910年)4月15日、試験訓練航海で第六潜水艇は事故で沈没しました­。

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第六号潜水艇は、明治39年、わが国で始めて建造された排水量僅か57トン、水中速力3ノット、水上でも8ノットで、当時「どん亀」と呼ばれ、それまで外国から購入したものに比べ、最小のものでありました。

すべて艇の劣勢は訓練で打ち勝とうという当時の海軍魂から第六号艇も、訓練につぐ訓練を重ねていたのです。

しかるに、不幸にも明治43年4月15日、呉港を出航した第六号潜水艇は、山口県岩国新湊沖で半潜航訓練中、遭難し、艇長佐久間大尉以下、乗組員14士と共に海底に沈没したのであります。

八木秀次さんという方が書いた『国民の思想』という本があります。
その中に次のような話が載っています。

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 「明治四三年の春、山口県の沖合で日本の潜水艦が演習をしていました。午前十時、潜航を始めると、まもなく艇に故障が起こって、海水が入り込み、艇は一四名の乗員を閉じこめたまま、海の底深く沈んで行きました。

艇長の海軍大尉・佐久間勉は、すぐに部下に命じて、海水の入るのを防がせ、入った海水をできるだけ出してしまうようにさせました。

しかし、電灯は消えて、艇内は暗く、その上、動力を使うこともできなくなっていたので、ただ手押しポンプを頼りに、必死の働きを続けさせました。

 どうしても、艇は浮き上がりません。母艦を見つけて、助けに来るかも知れないという、かすかな望みはありましたが、海上との連絡も絶えているので、それをあてにすることはできません。そのうちに、悪いガスが溜まって、息が次第に苦しくなって来ました。

部下は、一人二人と倒れて行きます。もうこれまでと覚悟した艇長は、司令塔の覗き孔から洩れて来るかすかな光を頼りに、鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。

 遺書には、第一に、天皇陛下の艇を沈め、部下を死なせるようになった罪を詫び、乗員一同がよく職分を守ったことを述べ、またこの思いがけない出来事のために潜水艇の発達を妨げるようなことがあってはならないと考え、特に沈んだ原因やその様子を詳しく記してあります。

次に、部下の遺族についての願いを述べ、上官・先輩・恩師の名を書き連ねて別れを告げ、最後に『一二時四〇分』と、書いてありました。

 艇が引き揚げられた時には、艇長以下一四名の乗員が最後まで職分を守って、できる限りの力を尽くした様子がありありと残っていました。遺言はこの時、艇長の上着から取り出されたのでした」。

これは一九一〇年に実際に起きた事故です。そのとき国民は、潜水艦が引き揚げられれば、そこにはきっと阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていて他人を押しのけてでも逃れようとして死んだ光景があるのではないか、と不安を持っていました。

 ところが潜水艦の艦内を調べてみると、全員が整然として死についていた状況が明らかになったのです。当時三〇歳の佐久間艇長は、司令塔にいて、他の一三人の乗務員は全員、本来の位置についたまま絶命していました。

 これを知った人々の気持ちは、そのとき不安から感嘆に変わったのです。この事件が全国に知られるや否や、感動の輪は全国民に広がりました。

佐久間艇長の上着のポケットから発見された黒表紙の手帳には、三九ページ、九七五字からなる鉛筆書きの遺書が見つかり、公開されました。

この時、文学者の夏目漱石も非常に感激を受けたそうです。彼は佐久間艇長の遺書の写真を見て感銘を受け、ある雑誌に文章を書きました。それについて、『国民の思想』の中にこう書かれています。

 「漱石はこの中で、かつてイギリスの潜航艇で同様の事故が起きたとき、艇員が争って死を逃れようとする一念から、一カ所にかたまって水明かりの洩れる窓の下に折り重なったまま死んでいたという事実を紹介しながら、人間にとって本能がいかに義務心より強いかを証明するに足るべき、有力な出来事であると述べる」。

 さらにこうあります。
 「佐久間艇長らが死の淵に至るまで乱れずに職務を全うしたという、人間としての崇高さ(ヒロイック)をたたえたのである」。

 こうした過去の日本人たちの姿を思う時に、本当に日本人は神様に愛された人々であると感じるのは、私だけでしょうか。もしそうでなければ、このような生き方は出来なかったに違いありません。

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この事件は世界中に日本人の責任感と勇敢さを示したものとして伝えられました。

イギリスの新聞グローブ紙は、「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。
今も昔もこのようなことは前例がない」 と賛辞の声を惜しみませんでした。

現在、英国ロンドン市の南部にある「ゴスポート潜水艦資料館」には、佐久間艇長のコーナーがあり、艇長の写真や遺書のコピーが展示されており、艇長の遺訓をたたえ、英国人の士気を鼓舞しているということをスピーチで述べている。

英国海軍の潜水艦学校は、現在も教科書で佐久間艇長の沈着冷静な行動をたたえています。

平成10年.4月15日佐久間記念館で行われた佐久間艇長遺徳顕彰式には、英国大使館付武官 ロバートソン大佐によるスピーチが為されています。 

尚、この佐久間艦長のメモの写しは、当時、アメリカ合衆国議会議事堂のワシントンの独立宣言書が陳列されている大広間に、英訳を添えて丁重に陳列されたりもしました。

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この佐久間艦長の逸話は、戦前戦中の修身の教科書に掲載されていました。

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処が、日本人のこの心・精神は米国にとっては目の上のたんこぶなので、GHQは戦後焚書とし、然も、日教組を組織させ、徹底的に日本の『大和魂』『武士道精神』を否定する教育が行われました。

大東亜戦争時代、米軍は日本の兵士や民間人が降伏してきたにも拘らず、皆殺しにしてきたのです。

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反戦平和の歌人といわれた与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠んでいます。

 海底の
 水の明かりに したためし
 永き別れの
 ますら男の文

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お時間のある方は、下記のユーチューブをご覧下さい。

ゆっくりで語る「第六潜水艇の事故」その1

ゆっくりで語る「第六潜水艇の事故」その2

ゆっくりで語る「第六潜水艇の事故」その3

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《佐久間館長を称える記念碑等》

六号神社
福井県三方上中郡若狭町南前川(前川神社境内)
近くに佐久間記念館と佐久間艇長生誕地記念碑がある。
尚、小浜市小浜公園には佐久間艇長銅像がある。

第六号潜水艇殉難顕彰碑 呉市三津田丘 鯛之宮神社境内

第六号潜水艇殉難者記念碑 岩国市
岩国市中心部から国道2号線を広島方面へ。和木町に入る少し手前、岩国警察署装港交番の脇の道(50mほど一方通行)を入る。

傍らの案内板には「佐久間艇長の遺書」の抜粋が記されている。眼下には瀬戸内の海が広がっている。「第6潜水艇の沈没場所」の案内図によると、現在地より当方約2000メートルの地点とのことである。
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(文章並びに画像借用先)
資料5  佐久間艇長を偲ぶ 他