竹林はるか遠く(1)


『Yoko story: the truth of So far from the bamboo grove』
この本は1986 年にアメリカで刊行後、数々の賞を受賞。
アメリカの中学校の教材として採択された感動秘話。
イメージ 1

終戦前後の朝鮮半島と日本で、日本人引き揚げ者が味わった壮絶な体験を赤裸々に綴る、息もつかせぬ、愛と涙のサバイバルストーリー

  ◇       ◇       ◇

昨年2013.07.11、ようやくこの日本語版が発売されたとのこと。
知りませんでした。

イメージ 2

竹林はるか遠く
日本人少女ヨーコの戦争体験記
ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ 著 
監訳 都竹 恵子 訳 2013.07.11発行
四六並製 236ページ 定価 1575円(本体 1500円)

  ◇    ◇    ◇

「序」より抜粋

一九四五年は、朝鮮北部に住んでいた一人の日本人少女にとって、最悪な年だった。

その当時、第二次世界大戦の脅威が日本に迫っていた。前哨隊を朝鮮北部の国境近くに配置しているソ連が、アメリカやイギリスの連合国軍に加わって、いつ日本に宣戦布告してくるか分からなかった。

重大な危機が、すぐ目の前にまで迫っていることも知らず、川嶋擁子は竹林に囲まれた家で何不自由なく幸せに暮らしていた。

擁子の幼い頃の思い出に、父がつがいのカナリアを持ってきたことがあった。鳥かごの前に座っては、長い間カナリアと話をしていた。後にこのことを作文に書いて学校で発表すると、クラスメートたちは笑い出して、「人間が鳥と話なんかできるわけがない」と言った。

しかし、その頃、すでに作家になろうと思っていた擁子は、「私はできるし、ちゃんと話をしたのよ」と言い張った。そして、この作文が地方新聞に載ったときは殊の外喜んだ。

しかし、それから数年後に、想像を絶するような現実の真っただ中に陥ることになるなど、擁子は知る由もなかった。――それはあまりにも冷酷で悲惨なものだったので、擁子が大人になってからそれを綴るまでに、多くの時間を要したのである。

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズはアメリカ人と結婚し、四人の成人した子供の母親となり、現在ケープ・コッドに住んでいる。

英語をマスターし、彼女自身の悪夢の物語を書きあげた努力は、生き残る技を身につけ、幼い頃朝鮮からの脱出時にみせた粘り強さと意志の証明である。彼女曰く――私はどん底のさらにどん底にいたのよ、と。

この本の出版に際し、作家仲間の一人が擁子に、
「これからは、他の作家といろいろな面で、競争をすることになるでしょうね」と言った。しかし、擁子は、いいえ、何のためであろうと誰とも競争するつもりはない、と答えた。

「私は若い頃、生きるか死ぬかの戦いをした。そして私は勝ったのよ」。これは擁子の勝利の物語である。
                                                      ジーン・フリッツ

          ◇       ◇       ◇

「日本語版刊行に寄せて」より抜粋

この本がアメリカで出版されて二十年経った二〇〇六年の秋、ボストン近辺に住む在米二世韓国人たちが突如怒りを爆発させました。

本書はアメリカで中学生の教材として採用されていたのですが、その内容について、「日本人を被害者にし、長年の日帝侵略が朝鮮人民に対して被害、犠牲、苦痛を与えた歴史を正確に書いていない」「強姦についても写実的に書いており、中学生の読むのにふさわしい本ではない」といった理由をつけて、本を教材からはずす運動をあらゆる手段を使ってやり始めたのです。

さらに、「著者の父親が七三一部隊に属していた悪名高い戦犯であり、また慰安婦満州に送った悪者である」といった事実に反することも言い始めました。そこにボストン駐在韓国領事も仲間に加わり、この動きが世界中に広まったのです。

本書は、私が十一才のとき、母、姉と朝鮮北部の羅南を脱出したときの体験を書いた自伝的小説に過ぎません。私の意図は、個人や民族を傷つけるためのものではなく、この物語を通して戦争の真っ只中に巻き込まれたときの生活、悲しみ、苦しさを世の中に伝え、平和を願うためのものでした。

どの国でも戦争が起きると、人々は狼狽し、混乱して下劣になりがちですが、その反面、人間の良さをも引き出させることがあります。私はこの物語の中で、自分たちの身の危険もいとわずに兄の命を助けて保護してくれた朝鮮人家族の事を語っています。これは「親切さ」についての一つの例えですが、彼ら以外にも親切にしてくれた多くの朝鮮人たちがいました。

羅南から釜山、日本の福岡へと帰ってきた少女時代の経験は、戦争とは恐怖そのもので、勝負はなく互いに「負け」という赤信号なのだということを私に教えてくれました。私はそのことを本書を通して地球上の全ての子供たちに伝えたい――それだけが私の願いです。
子供時代の思い出である故、歴史家から見れば、いたる所に間違いもあるでしょう。その点はお許しください。

本書を通して世界中の人々が、真の平和の中に生きて行く事を祈ってやみません。

          ◇       ◇       ◇

ユーチューブで概略を知る

竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記

          ◇       ◇       ◇

以下の記事は、日本語版が出版される1年2ヶ月前に、七生氏がユーチューブに英字原文を意訳し概要を述べたものの文字起こし版です。

この文章だけでも、その緊迫と残虐、非道、その渦中からどう生き延びたかを多少でも感じられると思います。

   
                   ◇

この記録は、ソ連国境に近いナナム(Nanam)から始まります。
この地図は、彼女のナナムから日本本土までの逃亡の軌跡です。

イメージ 3

ヨーコ物語(竹の森遠く)概要1      七生 報国 

「ヨーコ物語(竹の森遠く)概要1~12」を文字起こし

【主な登場人物】
 ●ヨーコ(当時11才-12才)・・・著者本人
 ●ヒデヨ(当時13才~16才と思われる)・・・著者の兄
 ●コウ (当時16才-17才)・・・著者の姉
 ●母
 ●父(官僚)
 ●フクイ先生
 ●マツムラ伍長
 ●マスダさん

<1.ナナムでの日々>
家に日本軍人が入ってきて、金属を提供せよと言われた。
弾丸を作るのに金属が必要だとの事。
私は学校が休みになるのが嬉しい。

父は「今は戦争中だから」と言う。
母はポケットを縫っていた。
学校では、空襲に備えて、生徒が学校の周りに溝を掘る。
空襲警報サイレンが鳴る。
エノモト先生が地面に伏せるよう叫ぶ。
学校にアメリカ軍機の空襲が来た。
米軍機は行ったが、土を掘る作業は続けられる。

家に帰る、疲れ果てて習字に集中できない、父は家にいない。
両親に、習字だけでなく、茶道・華道・舞踏・詩歌も放課後家でやるように言われている。

才能がないのでやめたいと言うと、母「そういう問題ではない。いつか役に立ちます。心を磨くのです。疲れているなら早く寝なさい」

4月に学校で聞いた祖国の酷い知らせ、学校でエモノト先生に、東京が空襲されている事を知らされる。
何人かの同級生は親族が東京にいる、すすり泣きが漏れる、私のじいちゃんは北日本にいる。

急いで学校の掃除を終え、家に帰る。
母に東京空襲の事を言う。
私の家はナナムで珍しくラジオがあって、母は東京空襲の事を知っていた。

母は戦争が拡大しない事を望むと言った。
母「陸軍部隊が京城ヒルの麓で新設された。それは私達の家からたった1マイル(約1.6km)の所」
帝国海軍の軍艦はラシンのドックに入っている。30マイル(約48km)先。

軍は朝鮮の農場を軍病院にした。
朝鮮人反日共産軍を設立した。
朝鮮は大日本帝国の一部だが、朝鮮人は日本人を憎んでいたし、戦争について満足でなかった。
母「恐ろしい」
母に軍病院での演劇の練習の進み具合を聞かれる。
父がコウと私に演劇をやるように決めた。

大きな赤十字のマークの陸軍トラックが次の日、道具や衣装を取りに来た。
フクイ先生とヒデヨはトラックで、母とコウと私はタクシーで陸軍病院へ向かう。

舞台裏の講堂で、子供達が歌や詩の朗読や琴をしていた。
着物の衣装に着替えるとき、負傷兵を見る。
負傷兵は、目に包帯が巻かれていたり、足や手がなかったりしていた。

緊張してきた。
そして、舞台が始まった。
他の子の歌や琴の公演の間に、私は踊りを踊った。
「何歳ですか?」「まだおしめしてますか?」と聞かれ爆笑。
皆笑い、三味線の準備のフクイ先生も笑った。

終了し、お腹が減った。
帰りたくなり足袋をすぐ脱いだ。
コウは負傷兵に握手をし、いたわった。
私がコウに「負傷兵にさわるの怖くなかった?」と聞いたらコウが「いいえ。彼らはお国の為に戦ったのよ」と言った。

医師がもう一人の患者を会わせた。
その患者はマツムラ伍長で、食欲がないらしい。
頭もあちこち包帯で巻かれてミイラに見えた。
医師は伍長に母とコウと私を紹介した。

コウが私の手を伍長の手にもっていき、伍長とはなす。
伍長の手が私の額や肩を触る。
傷跡(男の子との喧嘩跡)を聞かれる。
衣装と踊りの練習について聞かれる。
医師が退院させてくれたら踊りを見に行ってよいか聞かれ「はい」と答える。
名前について聞かれる。
母、コウ、私、フクイ先生は回復のお祈りをし、病院をでる。

数週間後、夕食に私が文句を言ったらヒデヨに叱られた。
ツムラ伍長が家に訪ねてきた。
母は夕食を出し、ヒデヨは父の代わりに応対した。
伍長「あなたがた姉妹に会おうと思ったら回復しました」
フクイ先生が来て三味線を調整した。
伍長はたびたび来て私達は彼が好きになっていった。
伍長は古典に博識で、現代語に翻訳した。


夏の夜、空襲防止に厚いカーテンを母とコウが作る。
教えてもらって私は衣類を2着作る。
ポケットに手紙入れる。「あなた方が村を侵略した時、虐殺や強姦しないで」

空襲警報のサイレンが鳴って防空壕へ急ぐ、地表では伏せる。
エノモト先生「B-29に見えた」
夜の空襲の飛行機は非常に低く飛ぶ。


ある日、ヒデヨが予科練に入ると母に言う。
コウと母はとても驚き、母はヒデヨを止めようとする。
母とヒデヨの言い争いが続く。
ヒデヨが自分の部屋に戻る、コウが呼びに来る。
コウ「もし父が死んだら誰が母さんの面倒をみるの?」
コウとヒデヨの言い争いが続き、コウが出ていく。

数週間後、ヒデヨの軍の試験の結果が来た。
ヒデヨは健康診断では受かったが、筆記で落ちた。
ヒデヨは弾薬工場で働くことになった。
ヒデヨが工場へ行った。
私は宿題の作文をやって寝た。


<2.逃避行 >
寝ているとたたき起こされた。
ツムラ伍長が来て「早く家から出てください」との事。
ソ連が侵攻してます。ご主人の仕事柄、あなたの家が狙われてます。」
「ヒデヨが工場から戻ってない」
「置手紙でソウル駅で会おうと」
「日本人の病人は朝4時に移動させます」
伍長「駅長は友人です。これは駅長へのメモです。今行ってください」
伍長が私のおでこにキスをした「忘れません、友情をありがとう」
私は伍長に「武運長久」と書いた書を手渡した。
母が伍長にお礼を言い、伍長は出て行った。


ヒデヨに手紙を書き、最低限の荷物を持ち出て行った。
川に沿って駅までの近道を歩く。
行進の音が聞こえ、伏せる。
コウ「彼らは反日朝鮮人共産主義同盟だ」
行進の音が近づき、朝鮮語で「敵を殺す練習しろ!」と男が叫ぶ。
私は嘔吐した。

部隊は川を渡って行った、安心した。
やっと駅が見えてきた。
駅について驚く、負傷兵、軍人市民でびっちり。
様々な人でごった返す中、駅長が見つからない。
駅長室にいっても駅長はいない。

やっと駅長がみつかる。
しかし、朝鮮人の駅長は、私達は病人でないので乗せられないという。
軍医のリュー先生が私達家族を知っていると言ってくれる。
ツムラ伍長の手紙を朝鮮人駅長に見せる。
ヒデヨがいない事を朝鮮人駅長に指摘される。
リュー先生の援護もありなんとか駅長の乗車許可を得る。


何回も失敗した後なんとか私は乗車できた。
看護婦の補助もありコウと母もなんとか乗車。
私は車内の妊婦に水をあげる。
列車が走りだした。
列車から我が家が見えた。
母は泣いていた。

翌朝、目が覚めて安心。
列車内は何も食べるものがない。水飲む。
トンネル内は煙でむせて大変だ。
コウがキャラメルをくれた。
赤ん坊を抱いている女性がいた。

医務員がみたところ、その赤ん坊は死んでいた。
医務員が赤ん坊を奪おうとするが女性が抵抗。
看護婦が列車から赤ん坊の遺体を投げ捨てた。
その母親は列車から飛び降りた。
死んだ患者を列車からどんどん投げ捨てて、スペースがだいぶできた。

あまりの空腹に母に魚の干物をねだる。
母に干物をもらう。
妊婦に少し干物を分ける。
誰もが水不足、ある女性は尿入れから尿を飲んでいた。
隣で寝ている妊婦が産気づいた。

ウォンサンにつく。

                              つづく

竹林はるか遠く(2)へ