がんで亡くなった同僚達のこと


当時の私には不思議でしたね。

本社に勤務していた47歳(1992年)の頃、同僚の福島参事(仮称)が肺がんに罹ったとかで一年間会社を休職し、高槻日赤病院に一年間入院。検査漬けの毎日だそうです。

がん治療の甲斐あって一年後に復職。
処が、暫らく経って再度入院。

今度は手術をし、がんを摘出。
更に一年後に再度復職。

1995年春、私は東京営業本部に転勤。
間も無く、彼の訃報を聞きました。


他方、1996年の頃、高崎支店で私の担当する部署の仕事をしている高松社員(仮称、50歳)が肺がんで高崎駅からほど近い国立病院に入院。

高崎出張の際、二度お見舞いに行きました。
彼は元気そのものでしたが、検査・検査の毎日であることと、抗がん剤での苦しさに閉口していましたね。

私は、福島参事の例もあり、この人も間もなく亡くなるだろうと思いました。

やはり彼も手術の一年後、亡くなりました。
未だ高崎からJRで東京の女子大に通うお嬢さんを残して。

この二人に共通しているのが、入院すると検査・検査の日々。
その検査とはCTスキャン。そして抗がん剤

そしてそして、1998年、かっての私の上司で私を擁護してくれた寺前さんががんで亡くなりました。

享年66歳。二年間京大病院に入院。(副鼻腔がん?)

彼の場合は、私の直属上司(当時50歳)の頃から歯医者に通っていました。
処がいつも多忙でしたから、歯医者に行くのも中途半端。

行く都度に初診料とレントゲンを何枚もとられるとぼやいていました。
この繰り返しが、本社部長の職から高松の子会社の常務へと転属してからも続きました。

私が時々高松に出張し、夜は寺前さんと一献を交わします。
寺前さんの歯は相変わらず未完治。

彼の在職中の毎年のレントゲン撮影枚数は、健康診断も合わせて10枚前後だったと記憶しています。

(参考)
私の履歴書No.204 《他人の言葉を鵜呑みにしてしまった私》
入院した寺前さんのお見舞いに行かなかった理由と葬儀。

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然し、今、振り返ってみますと、私たちは多くの放射線を浴びてきていますね。
1951年結核予防法により、小学生時代から社会人になっても毎年胸部X線を浴びてきました。

1964年WHOが全員を対象とする胸部X線は健康に有害であるとし、中止を求め、1975年頃までほとんどの先進国では胸部X線撮影を中止したのに、依然と続行してきたのが日本。

注1)日本で結核予防法が廃止されたのは2005年4月。
但し、企業では、今でも毎年、健康診断で胸部X線が行われている。

注2)私の場合は、在職中、同僚たちとは違って、胸部をX線で撮ったのは1回か2回に過ぎません。X線からはひたすら逃げていましたから。

それに、戦後始まった米国・ソ連・中国などの核実験で日本には放射能が降り注ぎましたし、更に、1986年のチェルノブイリ原発事故で、高濃度の放射能が日本に飛んできて、乳がんなどが多発しましたから、その影響もあるでしょう。

注3)総線量0.7シーベルトで肺がんなどのリスクが高まる。

イメージ 1

それに輪をかけて、一旦、がんと診断されたら最後、X線を無制限に浴びせられ、更に、免疫力を破壊する抗がん剤の投与ですから、医者ががん患者に宣言する『余命何年』の意味は、抗がん剤で免疫力が無くなる時間ですね。

今の私でしたら、胸部X線CTスキャンマンモグラフィ抗がん剤を即刻中止するよう説得するのですが・・・ 20年前のこと、残念です。

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他方、昨今では昨年に続き突然死が多いですね。
またまた初夏から夏にかけて顔見知りの方が二名亡くなりました。

特に、お盆で帰郷しましたら、50歳代の男性が突然死していましたので、焼香に行きました。

この男性の場合は、健康そのものでした。

孫のミルクを作って午後11時半就寝。
間もなく大いびき。
母親が顔を何度も叩くが治まらず。
救急車が来る前に亡くなったのですから、僅か30分の出来事。
原因は心臓でした。

ここの家庭の食生活を母親に聞くとなるほどと思えるものでした。
①食べ物に関しては、放射能に何の注意も払っていなかったこと。
②肉類主体の食事であったこと。
③牛乳が大好きで、毎日牛乳パック1本は飲んでいたこと。

(参考)
『牛肉とサプリと水』 2013.03.14
会社の接待費で新宿のホテルレストランのステーキ三昧の連中の行く末は・・・

(参考)
私のブログ記事 『微量な放射線のリスク』 2011.08.15